トを睨《にら》めて、この草の香《か》を臭《か》いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
御倉さんはもう赤い手絡《てがら》の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯《しょたい》じみた顔を、帳場へ曝《さら》してるだろう。聟《むこ》とは折合《おりあい》がいいか知らん。燕《つばくろ》は年々帰って来て、泥《どろ》を啣《ふく》んだ嘴《くちばし》を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の香《か》とはどうしても想像から切り離せない。
三本の松はいまだに好《い》い恰好《かっこう》で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、昔《むか》し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉《おくら》さんの旅の衣は鈴懸の[#「旅の衣は鈴懸の」に傍点]と云う、日《ひ》ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
三味《しゃみ》の音《ね》が思わぬパノラマを余の眼前《がんぜん》に展開するにつけ、余は床《ゆか》しい過去の面《ま》のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是《がんぜ》なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の
前へ
次へ
全217ページ中115ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング