が少しは解るだろう。ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。よく寝たものだ。これでは午飯《ひるめし》だけで間に合せる方が胃のためによかろう。
右側の障子《しょうじ》をあけて、昨夜《ゆうべ》の名残《なごり》はどの辺《へん》かなと眺める。海棠《かいどう》と鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狭い。五六枚の飛石《とびいし》を一面の青苔《あおごけ》が埋めて、素足《すあし》で踏みつけたら、さも心持ちがよさそうだ。左は山つづきの崖《がけ》に赤松が斜《なな》めに岩の間から庭の上へさし出している。海棠の後《うし》ろにはちょっとした茂みがあって、奥は大竹藪《おおたけやぶ》が十丈の翠《みど》りを春の日に曝《さら》している。右手は屋《や》の棟《むね》で遮《さえ》ぎられて、見えぬけれども、地勢から察すると、だらだら下《お》りに風呂場の方へ落ちているに相違ない。
山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの平地《へいち》となり、その平地が尽きて、海の底へもぐり込んで、十七里向うへ行ってまた隆然《りゅうぜん》と起き上って、周囲六里の摩耶島《まやじま》となる。これが那古井《なこい》の地勢である。温泉場は岡の麓《ふもと》を出来るだけ崖《がけ》へさしかけて、岨《そば》の景色を半分庭へ囲い込んだ一構《ひとかまえ》であるから、前面は二階でも、後ろは平屋《ひらや》になる。椽《えん》から足をぶらさげれば、すぐと踵《かかと》は苔《こけ》に着く。道理こそ昨夕は楷子段《はしごだん》をむやみに上《のぼ》ったり、下《くだ》ったり、異《い》な仕掛《しかけ》の家《うち》と思ったはずだ。
今度は左り側の窓をあける。自然と凹《くぼ》む二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》している。二株三株《ふたかぶみかぶ》の熊笹《くまざさ》が岩の角を彩《いろ》どる、向うに枸杞《くこ》とも見える生垣《いけがき》があって、外は浜から、岡へ上る岨道《そばみち》か時々人声が聞える。往来の向うはだらだらと南下《みなみさ》がりに蜜柑《みかん》を植えて、谷の窮《きわ》まる所にまた大きな竹藪が、白く光る。竹の葉が遠くから見ると、白く光るとはこの時初めて知った。藪から上は、松の多い山で、赤い幹の間から石磴《せきとう》が五六段手にとるように見える。大方《おおかた》御寺だろう。
入口の襖《ふすま》をあけて椽《えん》へ出ると、欄干《らんかん》が四角に曲って、方角から云えば海の見ゆべきはずの所に、中庭を隔《へだ》てて、表二階の一間《ひとま》がある。わが住む部屋も、欄干に倚《よ》ればやはり同じ高さの二階なのには興が催おされる。湯壺《ゆつぼ》は地《じ》の下にあるのだから、入湯《にゅうとう》と云う点から云えば、余は三層楼上に起臥《きが》する訳になる。
家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、居室《いま》台所は知らず、客間と名がつきそうなのは大抵《たいてい》立て切ってある。客は、余をのぞくのほかほとんど皆無《かいむ》なのだろう。|〆《しめ》た部屋は昼も雨戸《あまど》をあけず、あけた以上は夜も閉《た》てぬらしい。これでは表の戸締りさえ、するかしないか解らん。非人情の旅にはもって来いと云う屈強《くっきょう》な場所だ。
時計は十二時近くなったが飯《めし》を食わせる景色はさらにない。ようやく空腹を覚えて来たが、空山《くうざん》不見人《ひとをみず》と云う詩中にあると思うと、一とかたげぐらい倹約しても遺憾《いかん》はない。画《え》をかくのも面倒だ、俳句は作らんでもすでに俳三昧《はいざんまい》に入っているから、作るだけ野暮《やぼ》だ。読もうと思って三脚几《さんきゃくき》に括《くく》りつけて来た二三冊の書籍もほどく気にならん。こうやって、煦々《くく》たる春日《しゅんじつ》に背中《せなか》をあぶって、椽側《えんがわ》に花の影と共に寝ころんでいるのが、天下の至楽《しらく》である。考えれば外道《げどう》に堕《お》ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸《いき》もしたくない。畳から根の生えた植物のようにじっとして二週間ばかり暮して見たい。
やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か上《あが》ってくる。近づくのを聞いていると、二人らしい。それが部屋の前でとまったなと思ったら、一人は何《なん》にも云わず、元の方へ引き返す。襖《ふすま》があいたから、今朝の人と思ったら、やはり昨夜《ゆうべ》の小女郎《こじょろう》である。何だか物足らぬ。
「遅くなりました」と膳《ぜん》を据《す》える。朝食《あさめし》の言訳も何にも言わぬ。焼肴《やきざかな》に青いものをあしらって、椀《わん》の蓋《ふた》
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