をとれば早蕨《さわらび》の中に、紅白に染め抜かれた、海老《えび》を沈ませてある。ああ好い色だと思って、椀の中を眺《なが》めていた。
「御嫌《おきら》いか」と下女が聞く。
「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある晩餐《ばんさん》の席で、皿に盛《も》るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だと傍《かたわら》の人に話したと云う逸事をある書物で読んだ事があるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から云ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立《こんだて》は、吸物《すいもの》でも、口取でも、刺身《さしみ》でも物奇麗《ものぎれい》に出来る。会席膳《かいせきぜん》を前へ置いて、一箸《ひとはし》も着けずに、眺めたまま帰っても、目の保養から云えば、御茶屋へ上がった甲斐《かい》は充分ある。
「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
「ありゃ何だい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年|御亡《おな》くなりました」
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「三味《しゃみ》を弾《ひ》きます」
 これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いて見た。
「御寺へ行きます」と小女郎《こじょろう》が云う。
 これはまた意外である。御寺と三味線は妙だ。
「御寺|詣《まい》りをするのかい」
「いいえ、和尚様《おしょうさま》の所へ行きます」
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
「大徹様《だいてつさま》の所へ行きます」
 なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察すると何でも禅坊主《ぜんぼうず》らしい。戸棚に遠良天釜《おらてがま》があったのは、全くあの女の所持品だろう。
「この部屋は普段誰か這入《はい》っている所かね」
「普段は奥様がおります」
「それじゃ、昨夕《ゆうべ》、わたしが来る時までここにいたのだね」
「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
 会話はこれで切れる。飯はようやく了《おわ》る。膳を引くとき、小女郎が入口の襖《ふすま》を開《あけ》たら、中庭の栽込《うえこ》みを隔《へだ》てて、向う二階の欄干《らんかん》に銀杏返《いちょうがえ》しが頬杖《ほおづえ》を突いて、開化した楊柳観音《ようりゅうかんのん》のように下を見詰めていた。今朝に引き替《か》えて、はなはだ静かな姿である。俯向《うつむ》いて、瞳の働きが、こちらへ通わないから、相好《そうごう》にかほどな変化を来たしたものであろうか。昔の人は人に存するもの眸子《ぼうし》より良きはなしと云ったそうだが、なるほど人|焉《いずく》んぞ※[#「广+叟」、第3水準1−84−15]《かく》さんや、人間のうちで眼ほど活きている道具はない。寂然《じゃくねん》と倚《よ》る亜字欄《あじらん》の下から、蝶々《ちょうちょう》が二羽寄りつ離れつ舞い上がる。途端《とたん》にわが部屋の襖《ふすま》はあいたのである。襖の音に、女は卒然と蝶から眼を余の方《かた》に転じた。視線は毒矢のごとく空《くう》を貫《つらぬ》いて、会釈《えしゃく》もなく余が眉間《みけん》に落ちる。はっと思う間に、小女郎が、またはたと襖を立て切った。あとは至極《しごく》呑気《のんき》な春となる。
 余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
[#ここから2字下げ]
Sadder than is the moon's lost light,
   Lost ere the kindling of dawn,
   To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from my sight.
[#ここで字下げ終わり]
と云う句であった。もし余があの銀杏返《いちょうがえ》しに懸想《けそう》して、身を砕《くだ》いても逢わんと思う矢先に、今のような一瞥《いちべつ》の別れを、魂消《たまぎ》るまでに、嬉しとも、口惜《くちお》しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだろう。その上に

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