−74]泥帯水《たでいたいすい》の陋《ろう》を遺憾《いかん》なく示して、本来円満《ほんらいえんまん》の相《そう》に戻る訳には行かぬ。この故《ゆえ》に動《どう》と名のつくものは必ず卑しい。運慶《うんけい》の仁王《におう》も、北斎《ほくさい》の漫画《まんが》も全くこの動の一字で失敗している。動か静か。これがわれら画工《がこう》の運命を支配する大問題である。古来美人の形容も大抵この二大|範疇《はんちゅう》のいずれにか打ち込む事が出来べきはずだ。
 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静《しずか》である。眼は五分《ごぶ》のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨《しもぶくれ》の瓜実形《うりざねがた》で、豊かに落ちつきを見せているに引き易《か》えて、額《ひたい》は狭苦《せまくる》しくも、こせついて、いわゆる富士額《ふじびたい》の俗臭《ぞくしゅう》を帯びている。のみならず眉《まゆ》は両方から逼《せま》って、中間に数滴の薄荷《はっか》を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮《じれ》ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画《え》にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆|一癖《ひとくせ》あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。
 元来は静《せい》であるべき大地《だいち》の一角に陥欠《かんけつ》が起って、全体が思わず動いたが、動くは本来の性に背《そむ》くと悟って、力《つと》めて往昔《むかし》の姿にもどろうとしたのを、平衡《へいこう》を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日《こんにち》は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が――そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出来る。
 それだから軽侮《けいぶ》の裏《うら》に、何となく人に縋《すが》りたい景色が見える。人を馬鹿にした様子の底に慎《つつし》み深い分別《ふんべつ》がほのめいている。才に任せ、気を負《お》えば百人の男子を物の数とも思わぬ勢《いきおい》の下から温和《おとな》しい情《なさ》けが吾知らず湧《わ》いて出る。どうしても表情に一致がない。悟《さと》りと迷《まよい》が一軒の家《うち》に喧嘩《けんか》をしながらも同居している体《てい》だ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で、心に統一がないのは、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧《お》しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合《ふしあわせ》な女に違ない。
「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと会釈《えしゃく》した。
「ほほほほ御部屋は掃除《そうじ》がしてあります。往《い》って御覧なさい。いずれ後《のち》ほど」
と云うや否《いな》や、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気《かろげ》に馳《か》けて行った。頭は銀杏返《いちょうがえし》に結《い》っている。白い襟《えり》がたぼの下から見える。帯の黒繻子《くろじゅす》は片側《かたかわ》だけだろう。

        四

 ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗《きれい》に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥《ようだんす》が見える。上から友禅《ゆうぜん》の扱帯《しごき》が半分|垂《た》れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳《いしょう》の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚《はくいんおしょう》の遠良天釜《おらてがま》と、伊勢物語《いせものがたり》の一巻が並んでる。昨夕《ゆうべ》のうつつは事実かも知れないと思った。
 何気《なにげ》なく座布団《ざぶとん》の上へ坐ると、唐木《からき》の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟《はさ》んだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠《かいだう》の露をふるふや物狂《ものぐるひ》」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏《あさがらす》」とかいたものがある。鉛筆だから、書体はしかと解《わか》らんが、女にしては硬過《かたす》ぎる、男にしては柔《やわら》か過ぎる。おやとまた吃驚《びっくり》する。次を見ると「花の影、女の影の朧《おぼろ》かな」の下に「花の影女の影を重《かさ》ねけり」とつけてある。「正一位《しやういちゐ》女に化けて朧月《おぼろづき》」の下には「御曹子《おんざうし》女に化けて朧月」とある。真似《まね》をしたつもりか、添削《てんさく》した気か、風流の交《まじ》わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を傾《かたむ》けた。
 後《のち》ほどと云ったから、今に飯《めし》の時にでも出て来るかも知れない。出て来たら様子
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