》き脈を通わせる。地を這《は》う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂《たましい》の、わが殻《から》を離れんとして離るるに忍びざる態《てい》である。抜け出《い》でんとして逡巡《ためら》い、逡巡いては抜け出でんとし、果《は》ては魂と云う個体を、もぎどうに保《たも》ちかねて、氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1−86−48]《いんうん》たる瞑氛《めいふん》が散るともなしに四肢五体に纏綿《てんめん》して、依々《いい》たり恋々《れんれん》たる心持ちである。
余が寤寐《ごび》の境《さかい》にかく逍遥《しょうよう》していると、入口の唐紙《からかみ》がすうと開《あ》いた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ心地《ここち》よく眺《なが》めている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が閉《と》じている瞼《まぶた》の裏《うち》に幻影《まぼろし》の女が断《ことわ》りもなく滑《すべ》り込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに這入《はい》る。仙女《せんにょ》の波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。閉ずる眼《まなこ》のなかから見る世の中だから確《しか》とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足《えりあし》の長い女である。近頃はやる、ぼかした写真を灯影《ほかげ》にすかすような気がする。
まぼろしは戸棚《とだな》の前でとまる。戸棚があく。白い腕が袖《そで》をすべって暗闇《くらやみ》のなかにほのめいた。戸棚がまたしまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。入口の唐紙がひとりでに閉《た》たる。余が眠りはしだいに濃《こま》やかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。
いつまで人と馬の相中《あいなか》に寝ていたかわれは知らぬ。耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は隅《すみ》から隅まで明るい。うららかな春日《はるび》が丸窓の竹格子《たけごうし》を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの潜《ひそ》む余地はなさそうだ。神秘は十万億土《じゅうまんおくど》へ帰って、三途《さんず》の川《かわ》の向側《むこうがわ》へ渡ったのだろう。
浴衣《ゆかた》のまま、風呂場《ふろば》へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺《ゆつぼ》のなかで顔を浮かしていた。洗う気にも、出る気にもならない。第一|昨夕《ゆうべ》はどうしてあんな心持ちになったのだろう。昼と夜を界《さかい》にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。
身体《からだ》を拭《ふ》くさえ退儀《たいぎ》だから、いい加減にして、濡《ぬ》れたまま上《あが》って、風呂場の戸を内から開《あ》けると、また驚かされた。
「御早う。昨夕《ゆうべ》はよく寝られましたか」
戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ出合頭《であいがしら》の挨拶《あいさつ》だから、さそくの返事も出る遑《いとま》さえないうちに、
「さ、御召《おめ》しなさい」
と後《うし》ろへ廻って、ふわりと余の背中《せなか》へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、途端《とたん》に女は二三歩|退《しりぞ》いた。
昔から小説家は必ず主人公の容貌《ようぼう》を極力描写することに相場がきまってる。古今東西の言語で、佳人《かじん》の品評《ひんぴょう》に使用せられたるものを列挙したならば、大蔵経《だいぞうきょう》とその量を争うかも知れぬ。この辟易《へきえき》すべき多量の形容詞中から、余と三歩の隔《へだた》りに立つ、体《たい》を斜《なな》めに捩《ねじ》って、後目《しりめ》に余が驚愕《きょうがく》と狼狽《ろうばい》を心地《ここち》よげに眺《なが》めている女を、もっとも適当に叙《じょ》すべき用語を拾い来ったなら、どれほどの数になるか知れない。しかし生れて三十余年の今日《こんにち》に至るまで未《いま》だかつて、かかる表情を見た事がない。美術家の評によると、希臘《ギリシャ》の彫刻の理想は、端粛《たんしゅく》の二字に帰《き》するそうである。端粛とは人間の活力の動かんとして、未だ動かざる姿と思う。動けばどう変化するか、風雲《ふううん》か雷霆《らいてい》か、見わけのつかぬところに余韻《よいん》が縹緲《ひょうびょう》と存するから含蓄《がんちく》の趣《おもむき》を百世《ひゃくせい》の後《のち》に伝うるのであろう。世上幾多の尊厳と威儀とはこの湛然《たんぜん》たる可能力の裏面に伏在している。動けばあらわれる。あらわるれば一か二か三か必ず始末がつく。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった暁《あかつき》には、※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84
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