ばなるほど、耳だけになっても、あとを慕《した》って飛んで行きたい気がする。もうどう焦慮《あせっ》ても鼓膜《こまく》に応《こた》えはあるまいと思う一刹那《いっせつな》の前、余はたまらなくなって、われ知らず布団《ふとん》をすり抜けると共にさらりと障子《しょうじ》を開《あ》けた。途端《とたん》に自分の膝《ひざ》から下が斜《なな》めに月の光りを浴びる。寝巻《ねまき》の上にも木の影が揺れながら落ちた。
障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。花ならば海棠《かいどう》かと思わるる幹を背《せ》に、よそよそしくも月の光りを忍んで朦朧《もうろう》たる影法師《かげぼうし》がいた。あれかと思う意識さえ、確《しか》とは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み砕《くだ》いて右へ切れた。わがいる部屋つづきの棟《むね》の角《かど》が、すらりと動く、背《せい》の高い女姿を、すぐに遮《さえぎ》ってしまう。
借着《かりぎ》の浴衣《ゆかた》一枚で、障子へつらまったまま、しばらく茫然《ぼうぜん》としていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。ともかくもと抜け出でた布団の穴に、再び帰参《きさん》して考え出した。括《くく》り枕《まくら》のしたから、袂時計《たもとどけい》を出して見ると、一時十分過ぎである。再び枕の下へ押し込んで考え出した。よもや化物《ばけもの》ではあるまい。化物でなければ人間で、人間とすれば女だ。あるいは此家《ここ》の御嬢さんかも知れない。しかし出帰《でがえ》りの御嬢さんとしては夜なかに山つづきの庭へ出るのがちと不穏当《ふおんとう》だ。何にしてもなかなか寝られない。枕の下にある時計までがちくちく口をきく。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寝るな寝るなと忠告するごとく口をきく。怪《け》しからん。
怖《こわ》いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄《すご》い事も、己《おの》れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画《え》になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿《やど》るところやら、憂《うれい》のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢《あふ》るるところやらを、単に客観的に眼前《がんぜん》に思い浮べるから文学美術の材料になる。世には有りもせぬ失恋を製造して、自《みず》から強《し》いて煩悶《はんもん》して、愉快を貪《むさ》ぼるものがある。常人《じょうにん》はこれを評して愚《ぐ》だと云う、気違だと云う。しかし自から不幸の輪廓を描《えが》いて好《この》んでその中《うち》に起臥《きが》するのは、自から烏有《うゆう》の山水を刻画《こくが》して壺中《こちゅう》の天地《てんち》に歓喜すると、その芸術的の立脚地《りっきゃくち》を得たる点において全く等しいと云わねばならぬ。この点において世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)芸術家として常人よりも愚である、気違である。われわれは草鞋旅行《わらじたび》をする間《あいだ》、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊《そうゆう》を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々《ちょうちょう》して、したり顔である。これはあえて自《みずか》ら欺《あざむ》くの、人を偽《いつ》わるのと云う了見《りょうけん》ではない。旅行をする間は常人[#「常人」に傍点]の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人[#「詩人」に傍点]の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角《いっかく》を磨滅《まめつ》して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
この故《ゆえ》に天然《てんねん》にあれ、人事にあれ、衆俗《しゅうぞく》の辟易《へきえき》して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅《りんろう》を見、無上《むじょう》の宝※[#「王へん+路」、第3水準1−88−29]《ほうろ》を知る。俗にこれを名《なづ》けて美化《びか》と云う。その実は美化でも何でもない。燦爛《さんらん》たる彩光《さいこう》は、炳乎《へいこ》として昔から現象世界に実在している。ただ一翳《いちえい》眼に在《あ》って空花乱墜《くうげらんつい》するが故に、俗累《ぞくるい》の覊絏牢《きせつろう》として絶《た》ちがたきが故に、栄辱得喪《えいじょくとくそう》のわれに逼《せま》る事、念々切《せつ》なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙《おうきょ》が幽霊を描《えが》くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。
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