んぼう》しながら、まるで草双紙《くさぞうし》にでもありそうな事だと考えた。
 その後《ご》旅もいろいろしたが、こんな気持になった事は、今夜この那古井へ宿るまではかつて無かった。
 仰向《あおむけ》に寝ながら、偶然目を開《あ》けて見ると欄間《らんま》に、朱塗《しゅぬ》りの縁《ふち》をとった額《がく》がかかっている。文字《もじ》は寝ながらも竹影《ちくえい》払階《かいをはらって》塵不動《ちりうごかず》と明らかに読まれる。大徹《だいてつ》という落款《らっかん》もたしかに見える。余は書においては皆無鑒識《かいむかんしき》のない男だが、平生から、黄檗《おうばく》の高泉和尚《こうせんおしょう》の筆致《ひっち》を愛している。隠元《いんげん》も即非《そくひ》も木庵《もくあん》もそれぞれに面白味はあるが、高泉《こうせん》の字が一番|蒼勁《そうけい》でしかも雅馴《がじゅん》である。今この七字を見ると、筆のあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現《げん》に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主がいたかも知れぬ。それにしては紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
 横を向く。床《とこ》にかかっている若冲《じゃくちゅう》の鶴の図が目につく。これは商売柄《しょうばいがら》だけに、部屋に這入《はい》った時、すでに逸品《いっぴん》と認めた。若冲の図は大抵|精緻《せいち》な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼《きがね》なしの一筆《ひとふで》がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形《たまごなり》の胴がふわっと乗《のっ》かっている様子は、はなはだ吾意《わがい》を得て、飄逸《ひょういつ》の趣《おもむき》は、長い嘴《はし》のさきまで籠《こも》っている。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分らない。
 すやすやと寝入る。夢に。
 長良《ながら》の乙女《おとめ》が振袖を着て、青馬《あお》に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上《のぼ》って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿《さお》を持って、向島《むこうじま》を追懸《おっか》けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末《ゆくえ》も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
 そこで眼が醒《さ》めた。腋《わき》の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆《がぞくこんこう》な夢を見たものだと思った。昔し宋《そう》の大慧禅師《だいえぜんじ》と云う人は、悟道の後《のち》、何事も意のごとくに出来ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。文芸を性命《せいめい》にするものは今少しうつくしい夢を見なければ幅《はば》が利《き》かない。こんな夢では大部分画にも詩にもならんと思いながら、寝返りを打つと、いつの間にか障子《しょうじ》に月がさして、木の枝が二三本|斜《なな》めに影をひたしている。冴《さ》えるほどの春の夜《よ》だ。
 気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛《まぎ》れ込んだのかと耳を峙《そばだ》てる。たしかに誰かうたっている。細くかつ低い声には相違ないが、眠らんとする春の夜《よ》に一縷《いちる》の脈をかすかに搏《う》たせつつある。不思議な事に、その調子はとにかく、文句をきくと――枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。――その聞えぬはずのものが、よく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良《ながら》の乙女《おとめ》の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。
 初めのうちは椽《えん》に近く聞えた声が、しだいしだいに細く遠退《とおの》いて行く。突然とやむものには、突然の感はあるが、憐《あわ》れはうすい。ふっつりと思い切ったる声をきく人の心には、やはりふっつりと思い切ったる感じが起る。これと云う句切りもなく自然《じねん》に細《ほそ》りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒《びょう》を縮め、分《ふん》を割《さ》いて、心細さの細さが細る。死なんとしては、死なんとする病夫《びょうふ》のごとく、消えんとしては、消えんとする灯火《とうか》のごとく、今やむか、やむかとのみ心を乱すこの歌の奥には、天下の春の恨《うら》みをことごとく萃《あつ》めたる調べがある。
 今までは床《とこ》の中に我慢して聞いていたが、聞く声の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その声を追いかけたくなる。細くなれ
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