ざ》して、遠く向うを指《ゆびさ》している、袖無し姿の婆さんを、春の山路《やまじ》の景物として恰好《かっこう》なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端《とたん》に、婆さんの姿勢は崩れた。
 手持無沙汰《てもちぶさた》に写生帖を、火にあてて乾《かわ》かしながら、
「御婆さん、丈夫そうだね」と訊《たず》ねた。
「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧《お》もうみます、御団子《おだんご》の粉《こ》も磨《ひ》きます」
 この御婆さんに石臼《いしうす》を挽《ひ》かして見たくなった。しかしそんな注文も出来ぬから、
「ここから那古井《なこい》までは一里|足《た》らずだったね」と別な事を聞いて見る。
「はい、二十八丁と申します。旦那《だんな》は湯治《とうじ》に御越《おこ》しで……」
「込み合わなければ、少し逗留《とうりゅう》しようかと思うが、まあ気が向けばさ」
「いえ、戦争が始まりましてから、頓《とん》と参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」
「妙な事だね。それじゃ泊《と》めてくれないかも知れんね」
「いえ、御頼みになればいつでも宿《と》めます」
「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、志保田《しほだ》さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
 会話はちょっと途切《とぎ》れる。帳面をあけて先刻《さっき》の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴《きこ》え出した。この声がおのずと、拍子《ひょうし》をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端《はじ》に、
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春風や惟然《いねん》が耳に馬の鈴
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と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
 やがて長閑《のどか》な馬子唄《まごうた》が、春に更《ふ》けた空山一路《くうざんいちろ》の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても画《え》にかいた声だ。
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馬子唄《まごうた》の鈴鹿《すずか》越ゆるや春の雨
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と、今度は斜《はす》に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。
「また誰ぞ来ました」と婆さんが半《なか》ば独《ひと》り言《ごと》のように云う。
 ただ一条《ひとすじ》の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前|逢《お》うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を下《くだ》り、思われては山を登ったのだろう。路|寂寞《じゃくまく》と古今《ここん》の春を貫《つらぬ》いて、花を厭《いと》えば足を着くるに地なき小村《こむら》に、婆さんは幾年《いくねん》の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、今日《こんにち》の白頭《はくとう》に至ったのだろう。
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馬子《まご》唄や白髪《しらが》も染めで暮るる春
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と次のページへ認《したた》めたが、これでは自分の感じを云い終《おお》せない、もう少し工夫《くふう》のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。何でも白髪[#「白髪」に傍点]という字を入れて、幾代の節[#「幾代の節」に傍点]と云う句を入れて、馬子唄[#「馬子唄」に傍点]という題も入れて、春の季《き》も加えて、それを十七字に纏《まと》めたいと工夫しているうちに、
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に留《とま》って大きな声をかける。
「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、鍛冶町《かじちょう》を通ったら、娘に霊厳寺《れいがんじ》の御札《おふだ》を一枚もらってきておくれなさい」
「はい、貰ってきよ。一枚か。――御秋《おあき》さんは善《よ》い所へ片づいて仕合せだ。な、御叔母《おば》さん」
「ありがたい事に今日《こんにち》には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの那古井《なこい》の嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を撫《な》でる。
 枝繁《えだしげ》き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の塊《かた》まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮《か》りの住居《すまい》
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