を、さらさらと転《ころ》げ落ちる。馬は驚ろいて、長い鬣《たてがみ》を上下《うえした》に振る。
「コーラッ」と叱《しか》りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想《めいそう》を破る。
御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前《めさき》に散らついている。裾模様《すそもよう》の振袖《ふりそで》に、高島田《たかしまだ》で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、御叔母《おば》さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に斑《ふ》が出来ました」
余はまた写生帖をあける。この景色は画《え》にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
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花の頃を越えてかしこし馬に嫁
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と書きつける。不思議な事には衣装《いしょう》も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影《おもかげ》が忽然《こつぜん》と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速《さっそく》取り崩《くず》す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗《きれい》に立ち退《の》いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧《もうろう》と胸の底に残って、棕梠箒《しゅろぼうき》で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳《ひ》く彗星《すいせい》の何となく妙な気になる。
「それじゃ、まあ御免」と源さんが挨拶《あいさつ》する。
「帰りにまた御寄《およ》り。あいにくの降りで七曲《ななまが》りは難義だろ」
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは歩行《あるき》出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。
「あれは那古井《なこい》の男かい」
「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、峠《とうげ》を越したのかい」
「志保田の嬢様が城下へ御輿入《おこしいれ》のときに、嬢様を青馬《あお》に乗せて、源兵衛が覊絏《はづな》を牽《ひ》いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」
鏡に対《むか》うときのみ、わが頭の白きを喞《かこ》つものは幸の部に属する人である。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の疾《と》き趣《おもむき》を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ仙《せん》に近づける方だろう。余はこう答えた。
「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場《とうじば》へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里にいるのかい。やはり裾模様《すそもよう》の振袖《ふりそで》を着て、高島田に結《い》っていればいいが」
「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外|真面目《まじめ》である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。婆さんが云う。
「嬢様と長良《ながら》の乙女《おとめ》とはよく似ております」
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「昔《むか》しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者《ちょうじゃ》の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想《けそう》して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡《なび》こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩《わずら》ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
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あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
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と云う歌を咏《よ》んで、淵川《ふちかわ》へ身を投げて果《は》てました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅《こが》な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ下《くだ》ると、道端《みちばた》に五輪塔《ごりんのとう》が御座んす。ついでに長良《ながら》の乙女《おとめ》の墓を見て御行きなされ」
余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が祟《たた》りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出《おい》での頃|御逢《おあ》いなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」
「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な理由《わけ》もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」
「めでたく、淵川《ふちかわ》へ身を投げんで
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