a茶を飲み干して、糸底《いとぞこ》を上に、茶托《ちゃたく》へ伏せて、立ち上る。
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が御帰《おかえり》だぞよ」
送られて、庫裏《くり》を出ると、鳩がくううくううと鳴く。
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、木蓮《もくれん》は幾朶《いくだ》の雲華《うんげ》を空裏《くうり》に※[#「警」の「言」に代えて「手」、第3水準1−84−92]《ささ》げている。※[#「さんずい+穴」、第4水準2−78−39]寥《けつりょう》たる春夜《しゅんや》の真中《まなか》に、和尚ははたと掌《たなごころ》を拍《う》つ。声は風中《ふうちゅう》に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃《いしだたみ》の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。
十二
基督《キリスト》は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚《おしょう》のごときは、まさしくこの資格を有していると思う。趣味があると云う意味ではない。時勢に通じていると云う訳でもない。彼は画《え》と云う名のほとんど下《くだ》すべからざる達磨《だるま》の幅《ふく》を掛けて、ようできたなどと得意である。彼は画工《えかき》に博士があるものと心得ている。彼は鳩の眼を夜でも利《き》くものと思っている。それにも関《かか》わらず、芸術家の資格があると云う。彼の心は底のない嚢《ふくろ》のように行き抜けである。何にも停滞《ていたい》しておらん。随処《ずいしょ》に動き去り、任意《にんい》に作《な》し去って、些《さ》の塵滓《じんし》の腹部に沈澱《ちんでん》する景色《けしき》がない。もし彼の脳裏《のうり》に一点の趣味を貼《ちょう》し得たならば、彼は之《ゆ》く所に同化して、行屎走尿《こうしそうにょう》の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁《へ》の数を勘定《かんじょう》される間は、とうてい画家にはなれない。画架《がか》に向う事は出来る。小手板《こていた》を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色《しゅんしょく》のなかに五尺の痩躯《そうく》を埋《うず》めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界《きょうがい》に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素《せきそ》を染めず、寸※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]《すんけん》を塗らざるも、われは第一流の大画工である。技《ぎ》において、ミケルアンゼロに及ばず、巧《たく》みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武《ほぶ》を斉《ひとし》ゅうして、毫《ごう》も遜《ゆず》るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画《え》もかかない。絵の具箱は酔興《すいきょう》に、担《かつ》いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤《わら》うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境《きょう》を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
朝飯《あさめし》をすまして、一本の敷島《しきしま》をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞《かすみ》を離れて高く上《のぼ》っている。障子《しょうじ》をあけて、後《うし》ろの山を眺《なが》めたら、蒼《あお》い樹《き》が非常にすき通って、例になく鮮《あざ》やかに見えた。
余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙《よのなか》でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合《きあい》一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好《しこう》で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自《おの》ずから制限されるのもまた当前《とうぜん》である。英国人のかいた山水《さんすい》に明るいものは一つもない。明るい画が嫌《きらい》なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色《けいしょく》をかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透
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