ヘこれで、かくがの。そら、ここに掛けてある、この軸《じく》は先代がかかれたのじゃが、なかなかようかいとる」
 なるほど達磨の画が小さい床《とこ》に掛っている。しかし画としてはすこぶるまずいものだ。ただ俗気《ぞっき》がない。拙《せつ》を蔽《おお》おうと力《つと》めているところが一つもない。無邪気な画だ。この先代もやはりこの画のような構わない人であったんだろう。
「無邪気な画ですね」
「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。気象《きしょう》さえあらわれておれば……」
「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははまあ、そうでも、賞《ほ》めて置いてもらおう。時に近頃は画工にも博士があるかの」
「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人|逢《お》うた」
「へええ」
「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで御逢いです、東京ですか」
「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。蜀犬《しょっけん》日に吠《ほ》え、呉牛《ごぎゅう》月に喘《あえ》ぐと云うから、わしのような田舎者《いなかもの》は、かえって困るかも知れんてのう」
「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
 鉄瓶《てつびん》の口から煙が盛《さかん》に出る。和尚《おしょう》は茶箪笥《ちゃだんす》から茶器を取り出して、茶を注《つ》いでくれる。
「番茶を一つ御上《おあが》り。志保田の隠居さんのような甘《うま》い茶じゃない」
「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり画《え》をかくためかの」
「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう云っても善《い》いでしょう。屁《へ》の勘定《かんじょう》をされるのが、いやですからね」
 さすがの禅僧も、この語だけは解《げ》しかねたと見える。
「屁の勘定た何かな」
「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、臀《しり》の穴が三角だの、四角だのって余計な事をやりますよ」
「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。探偵《たんてい》の方です」
「探偵? なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、画工《えかき》には入《い》りませんね」
「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の厄介《やっかい》になった事がない」
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。澄《す》ましていたら。自分にわるい事がなけりゃ、なんぼ警察じゃて、どうもなるまいがな」
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑《ぞうふ》をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済むようになる」
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの泊《とま》っている、志保田の御那美さんも、嫁に入《い》って帰ってきてから、どうもいろいろな事が気になってならん、ならんと云うてしまいにとうとう、わしの所へ法《ほう》を問いに来たじゃて。ところが近頃はだいぶ出来てきて、そら、御覧。あのような訳《わけ》のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか機鋒《きほう》の鋭《する》どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安《たいあん》と云う若僧《にゃくそう》も、あの女のために、ふとした事から大事《だいじ》を窮明《きゅうめい》せんならん因縁《いんねん》に逢着《ほうちゃく》して――今によい智識《ちしき》になるようじゃ」
 静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに応《こた》うるがごとく、応えざるがごとく、有耶無耶《うやむや》のうちに微《かす》かなる、耀《かがや》きを放つ。漁火《いさりび》は明滅す。
「あの松の影を御覧」
「奇麗《きれい》ですな」
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
 茶碗に余った
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