sはく》を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺《とげ》に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。
石甃《いしだたみ》を行き尽くして左へ折れると庫裏《くり》へ出る。庫裏の前に大きな木蓮《もくれん》がある。ほとんど一《ひ》と抱《かかえ》もあろう。高さは庫裏の屋根を抜いている。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。そうして枝の重なり合った上が月である。普通、枝がああ重なると、下から空は見えぬ。花があればなお見えぬ。木蓮の枝はいくら重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙《す》いている。木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ明《あきら》かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。その一輪がどこまで簇《むら》がって、どこまで咲いているか分らぬ。それにもかかわらず一輪はついに一輪で、一輪と一輪の間から、薄青い空が判然《はんぜん》と望まれる。花の色は無論純白ではない。いたずらに白いのは寒過ぎる。専《もっぱ》らに白いのは、ことさらに人の眼を奪う巧《たく》みが見える。木蓮の色はそれではない。極度の白きをわざと避《さ》けて、あたたかみのある淡黄《たんこう》に、奥床《おくゆか》しくも自《みずか》らを卑下《ひげ》している。余は石甃《いしだたみ》の上に立って、このおとなしい花が累々《るいるい》とどこまでも空裏《くうり》に蔓《はびこ》る様《さま》を見上げて、しばらく茫然《ぼうぜん》としていた。眼に落つるのは花ばかりである。葉は一枚もない。
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木蓮の花ばかりなる空を瞻《み》る
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と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。盗人《ぬすびと》はおらぬ国と見える。狗《いぬ》はもとより吠《ほ》えぬ。
「御免」
と訪問《おとず》れる。森《しん》として返事がない。
「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの向《むこう》で答えたものがある。人の家を訪《と》うて、こんな返事を聞かされた事は決してない。やがて足音が廊下へ響くと、紙燭《しそく》の影が、衝立《ついたて》の向側にさした。小坊主がひょこりとあらわれる。了念《りょうねん》であった。
「和尚《おしょう》さんはおいでかい」
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる画工《えかき》が来たと、取次《とりつい》でおくれ」
「画工さんか。それじゃ御上《おあが》り」
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう御揃《おそろ》えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計《みはから》って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認《したた》めてある。
「そおら。読めたろ。脚下《きゃっか》を見よ、と書いてあるが」
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚の室《へや》は廊下を鍵《かぎ》の手《て》に曲《まが》って、本堂の横手にある。障子《しょうじ》を恭《うやうや》しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田《しほだ》から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体《てい》である。余はちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」
余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏《いろり》を切って、鉄瓶《てつびん》が鳴る。和尚は向側に書見《しょけん》をしていた。
「さあこれへ」と眼鏡《めがね》をはずして、書物を傍《かたわら》へおしやる。
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「座布団《ざぶとん》を上げんか」
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭《ひらにわ》の向うは、すぐ懸崖《けんがい》と見えて、眼の下に朧夜《おぼろよ》の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火《いさりび》がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化《ば》けるつもりだろう。
「これはいい景色。和尚《おしょう》さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩《いくばん》見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっともあなたは画工《えかき》だから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨《だるま》の画《え》ぐらい
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