ォいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのをもって、さも名誉のごとく心得ている。五年も十年も人の臀《しり》に探偵《たんてい》をつけて、人のひる屁《へ》の勘定《かんじょう》をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後《うし》ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えばなおなお云う。よせと云えばますます云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうしてそれが処世の方針だと云う。方針は人々《にんにん》勝手である。ただひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差《さ》し控《ひか》えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのをもって、こっちの方針とするばかりだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。
こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興|来《きた》れば興来るをもって方針とする。興去れば興去るをもって方針とする。句を得れば、得たところに方針が立つ。得なければ、得ないところに方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。これが真正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当|防禦《ぼうぎょ》の方針で、こうやって観海寺の石段を登るのは随縁放曠《ずいえんほうこう》の方針である。
仰数《あおぎかぞう》春星《しゅんせい》一二三の句を得て、石磴《せきとう》を登りつくしたる時、朧《おぼろ》にひかる春の海が帯のごとくに見えた。山門を入る。絶句《ぜっく》は纏《まと》める気にならなくなった。即座にやめにする方針を立てる。
石を甃《たた》んで庫裡《くり》に通ずる一筋道の右側は、岡つつじの生垣《いけがき》で、垣の向《むこう》は墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦《やねがわら》が高い所で、幽《かす》かに光る。数万の甍《いらか》に、数万の月が落ちたようだと見上《みあげ》る。どこやらで鳩の声がしきりにする。棟《むね》の下にでも住んでいるらしい。気のせいか、廂《ひさし》のあたりに白いものが、点々見える。糞《ふん》かも知れぬ。
雨垂《あまだ》れ落ちの所に、妙な影が一列に並んでいる。木とも見えぬ、草では無論ない。感じから云うと岩佐又兵衛《いわさまたべえ》のかいた、鬼《おに》の念仏《ねんぶつ》が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の端《はじ》から端まで、一列に行儀よく並んで躍《おど》っている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。朧夜《おぼろよ》にそそのかされて、鉦《かね》も撞木《しゅもく》も、奉加帳《ほうがちょう》も打ちすてて、誘《さそ》い合《あわ》せるや否やこの山寺《やまでら》へ踊りに来たのだろう。
近寄って見ると大きな覇王樹《さぼてん》である。高さは七八尺もあろう、糸瓜《へちま》ほどな青い黄瓜《きゅうり》を、杓子《しゃもじ》のように圧《お》しひしゃげて、柄《え》の方を下に、上へ上へと継《つ》ぎ合《あわ》せたように見える。あの杓子がいくつ継《つな》がったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも廂《ひさし》を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも突飛《とっぴ》である。こんな滑稽《こっけい》な樹《き》はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ仏《ぶつ》と問われて、庭前《ていぜん》の柏樹子《はくじゅし》と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下《げっか》の覇王樹《はおうじゅ》と応《こた》えるであろう。
少時《しょうじ》、晁補之《ちょうほし》と云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦《あんしょう》している句がある。「時に九月天高く露清く、山|空《むな》しく、月|明《あきら》かに、仰いで星斗《せいと》を視《み》れば皆《みな》光大《ひかりだい》、たまたま人の上にあるがごとし、窓間《そうかん》の竹《たけ》数十|竿《かん》、相|摩戞《まかつ》して声|切々《せつせつ》やまず。竹間《ちくかん》の梅棕《ばいそう》森然《しんぜん》として鬼魅《きび》の離立笑※[#「髟/丐」、第4水準2−93−21]《りりつしょうひん》の状《じょう》のごとし。二三子|相顧《あいかえり》み、魄《はく》動いて寝《いぬ》るを得ず。遅明《ちめい》皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この覇王樹《さぼてん》も時と場合によれば、余の魄
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