フ巌《いわお》を、影の先から、水際の継目《つぎめ》まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤沢《じゅんたく》の気合《けあい》から、皴皺《しゅんしゅ》の模様を逐一《ちくいち》吟味《ぎんみ》してだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双眼《そうがん》が今|危巌《きがん》の頂《いただ》きに達したるとき、余は蛇《へび》に睨《にら》まれた蟇《ひき》のごとく、はたりと画筆《えふで》を取り落した。
緑《みど》りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩《いろ》どる中に、楚然《そぜん》として織り出されたる女の顔は、――花下《かか》に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖《ふりそで》に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。
余が視線は、蒼白《あおじろ》き女の顔の真中《まんなか》にぐさと釘付《くぎづ》けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯《たいく》を伸《の》せるだけ伸して、高い巌《いわお》の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那《いっせつな》!
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢《じゅしょう》を掠《かす》めて、幽《かす》かに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。
また驚かされた。
十一
山里《やまざと》の朧《おぼろ》に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数《あおぎかぞう》春星《しゅんせい》一二三と云う句を得た。余は別に和尚《おしょう》に逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を出《い》でて足の向くところに任せてぶらぶらするうち、ついこの石磴《せきとう》の下に出た。しばらく不許葷酒入山門《くんしゅさんもんにいるをゆるさず》と云う石を撫《な》でて立っていたが、急にうれしくなって、登り出したのである。
トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の御覚召《おぼしめし》に叶《かの》うた書き方はないとある。最初の一句はともかくも自力《じりき》で綴《つづ》る。あとはひたすらに神を念じて、筆の動くに任せる。何をかくか自分には無論見当がつかぬ。かく者は自己であるが、かく事は神の事である。したがって責任は著者にはないそうだ。余が散歩もまたこの流儀を汲《く》んだ、無責任の散歩である。ただ神を頼まぬだけが一層の無責任である。スターンは自分の責任を免《のが》れると同時にこれを在天の神に嫁《か》した。引き受けてくれる神を持たぬ余はついにこれを泥溝《どぶ》の中に棄《す》てた。
石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って佇《たたず》むとき何となく愉快だ。それだから二段登る。二段目に詩が作りたくなる。黙然《もくねん》として、吾影を見る。角石《かくいし》に遮《さえぎ》られて三段に切れているのは妙だ。妙だからまた登る。仰いで天を望む。寝ぼけた奥から、小さい星がしきりに瞬《まばた》きをする。句になると思って、また登る。かくして、余はとうとう、上まで登り詰めた。
石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる五山《ごさん》なるものを、ぐるぐる尋ねて廻った時、たしか円覚寺《えんがくじ》の塔頭《たっちゅう》であったろう、やはりこんな風に石段をのそりのそりと登って行くと、門内から、黄《き》な法衣《ころも》を着た、頭の鉢《はち》の開いた坊主が出て来た。余は上《のぼ》る、坊主は下《くだ》る。すれ違った時、坊主が鋭どい声でどこへ御出《おいで》なさると問うた。余はただ境内《けいだい》を拝見にと答えて、同時に足を停《と》めたら、坊主は直《ただ》ちに、何もありませんぞと言い捨てて、すたすた下りて行った。あまり洒落《しゃらく》だから、余は少しく先《せん》を越された気味で、段上に立って、坊主を見送ると、坊主は、かの鉢の開いた頭を、振り立て振り立て、ついに姿を杉の木の間に隠した。その間《あいだ》かつて一度も振り返った事はない。なるほど禅僧は面白い。きびきびしているなと、のっそり山門を這入《はい》って、見ると、広い庫裏《くり》も本堂も、がらんとして、人影はまるでない。余はその時に心からうれしく感じた。世の中にこんな洒落《しゃらく》な人があって、こんな洒落に、人を取り扱ってくれたかと思うと、何となく気分が晴々《せいせい》した。禅《ぜん》を心得ていたからと云う訳ではない。禅のぜの字もいまだに知らぬ。ただあの鉢の開いた坊主の所作《しょさ》が気に入ったのである。
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな奴《やつ》で埋《うずま》っている。元来何しに世の中へ面《つら》を曝《さら》しているんだか、解《げ》しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大
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