セの度の非常に勝《まさ》っている、埃及《エジプト》または波斯辺《ペルシャへん》の光景のみを択《えら》んでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然《はっきり》出来上っている。
 個人の嗜好《しこう》はどうする事も出来ん。しかし日本の山水を描くのが主意であるならば、吾々《われわれ》もまた日本固有の空気と色を出さなければならん。いくら仏蘭西《フランス》の絵がうまいと云って、その色をそのままに写して、これが日本の景色《けいしょく》だとは云われない。やはり面《ま》のあたり自然に接して、朝な夕なに雲容煙態《うんようえんたい》を研究したあげく、あの色こそと思ったとき、すぐ三脚几《さんきゃくき》を担いで飛び出さなければならん。色は刹那《せつな》に移る。一たび機を失《しっ》すれば、同じ色は容易に眼には落ちぬ。余が今見上げた山の端《は》には、滅多《めった》にこの辺で見る事の出来ないほどな好《い》い色が充《み》ちている。せっかく来て、あれを逃《にが》すのは惜しいものだ。ちょっと写してきよう。
 襖《ふすま》をあけて、椽側《えんがわ》へ出ると、向う二階の障子《しょうじ》に身を倚《も》たして、那美さんが立っている。顋《あご》を襟《えり》のなかへ埋《うず》めて、横顔だけしか見えぬ。余が挨拶《あいさつ》をしようと思う途端《とたん》に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風のごとく動かした。閃《ひらめ》くは稲妻《いなずま》か、二折《ふたお》れ三折《みお》れ胸のあたりを、するりと走るや否《いな》や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九|寸《すん》五|分《ぶ》の白鞘《しらさや》がある。姿はたちまち障子の影に隠れた。余は朝っぱらから歌舞伎座《かぶきざ》を覗《のぞ》いた気で宿を出る。
 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道《そばみち》つづきの、爪上《つまあが》りになる。鶯《うぐいす》が所々《ところどころ》で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑《みかん》が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走《しわす》の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生《な》りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆《いくつ》でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹《き》の上で妙な節《ふし》の唄《うた》をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋《やくしゅや》へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃《つつ》の音がする。何だと聞いたら、猟師《りょうし》が鴨《かも》をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。
 あの女を役者にしたら、立派な女形《おんながた》が出来る。普通の役者は、舞台へ出ると、よそ行きの芸をする。あの女は家のなかで、常住《じょうじゅう》芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。自然天然《しぜんてんねん》に芝居をしている。あんなのを美的生活《びてきせいかつ》とでも云うのだろう。あの女の御蔭《おかげ》で画《え》の修業がだいぶ出来た。
 あの女の所作《しょさ》を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立《どうぐだて》を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在《あ》って、余とあの女の間に纏綿《てんめん》した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語《ごんご》に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡《めがね》から、あの女を覗《のぞ》いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。
 こんな考《かんがえ》をもつ余を、誤解してはならん。社会の公民として不適当だなどと評してはもっとも不届《ふとど》きである。善は行い難い、徳は施《ほど》こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい。これらをあえてするのは何人《なんびと》に取っても苦痛である。その苦痛を冒《おか》すためには、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜《ひそ》んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、あるは芝居と云うも、この悲酸《ひさん》のうちに籠《こも》る快感の別号に過ぎん。この趣《おもむ》きを解し得て、始めて吾人《ごじん》の所作は壮烈にもなる、
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