見るのと同じ訳になる。間《あいだ》三尺も隔《へだ》てていれば落ちついて見られる。あぶな気《げ》なしに見られる。言《ことば》を換《か》えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙《あ》げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識《かんしき》する事が出来る。
 ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ靠垂《もた》れ懸《かか》っていたと思ったが、いつのまにか、崩《くず》れ出《だ》して、四方《しほう》はただ雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。菜の花は疾《と》くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃《こまや》かでほとんど霧を欺《あざむ》くくらいだから、隔《へだ》たりはどれほどかわからぬ。時々風が来て、高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の背《せ》が右手に見える事がある。何でも谷一つ隔てて向うが脈の走っている所らしい。左はすぐ山の裾《すそ》と見える。深く罩《こ》める雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。
 路は存外《ぞんがい》広くなって、かつ平《たいら》だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。帽子から雨垂《あまだ》れがぽたりぽたりと落つる頃、五六間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子《まご》がふうとあらわれた。
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ濡《ぬ》れたね」
 まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は影画《かげえ》のように雨につつまれて、またふうと消えた。
 糠《ぬか》のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は一筋《ひとすじ》ごとに風に捲《ま》かれる様《さま》までが目に入《い》る。羽織はとくに濡れ尽《つく》して肌着に浸《し》み込んだ水が、身体《からだ》の温度《ぬくもり》で生暖《なまあたたか》く感ぜられる。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた歩行《ある》く。
 茫々《ぼうぼう》たる薄墨色《うすずみいろ》の世界を、幾条《いくじょう》の銀箭《ぎんせん》が斜《なな》めに走るなかを、ひたぶるに濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思えば、詩にもなる、句にも咏《よ》まれる。有体《ありてい》なる己《おの》れを忘れ尽《つく》して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保《たも》つ。ただ降る雨の心苦しくて、踏む足の疲れたるを気に掛ける瞬間に、われはすでに詩中の人にもあらず、画裡《がり》の人にもあらず。依然として市井《しせい》の一|豎子《じゅし》に過ぎぬ。雲煙飛動の趣《おもむき》も眼に入《い》らぬ。落花啼鳥《らっかていちょう》の情けも心に浮ばぬ。蕭々《しょうしょう》として独《ひと》り春山《しゅんざん》を行く吾《われ》の、いかに美しきかはなおさらに解《かい》せぬ。初めは帽を傾けて歩行《あるい》た。後《のち》にはただ足の甲《こう》のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。雨は満目《まんもく》の樹梢《じゅしょう》を揺《うご》かして四方《しほう》より孤客《こかく》に逼《せま》る。非人情がちと強過ぎたようだ。

        二

「おい」と声を掛けたが返事がない。
 軒下《のきした》から奥を覗《のぞ》くと煤《すす》けた障子《しょうじ》が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋《わらじ》が淋《さび》しそうに庇《ひさし》から吊《つる》されて、屈托気《くったくげ》にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子《だがし》の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭《ぶんきゅうせん》が散らばっている。
「おい」とまた声をかける。土間の隅《すみ》に片寄せてある臼《うす》の上に、ふくれていた鶏《にわとり》が、驚ろいて眼をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。敷居の外に土竈《どべっつい》が、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な茶釜《ちゃがま》がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸い下は焚《た》きつけてある。
 返事がないから、無断でずっと這入《はい》って、床几《しょうぎ》の上へ腰を卸《おろ》した。鶏《にわとり》は羽摶《はばた》きをして臼《うす》から飛び下りる。今度は畳の上へあがった。障子《しょうじ》がしめてなければ奥まで馳《か》けぬける気かも知れない。雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。まるで余を狐か狗《いぬ》のように考えているらしい。床几の上には一升枡《いっしょうます》ほどな煙草盆《たばこぼん》が閑静に控えて、中にはとぐろを捲《ま》いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長《ゆうちょう》に燻《いぶ
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