泛《うか》べてこの桃源《とうげん》に溯《さかのぼ》るものはないようだ。余は固《もと》より詩人を職業にしておらんから、王維《おうい》や淵明《えんめい》の境界《きょうがい》を今の世に布教《ふきょう》して広げようと云う心掛も何もない。ただ自分にはこう云う感興が演芸会よりも舞踏会よりも薬になるように思われる。ファウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。こうやって、ただ一人《ひとり》絵の具箱と三脚几《さんきゃくき》を担《かつ》いで春の山路《やまじ》をのそのそあるくのも全くこれがためである。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間《ま》でも非人情《ひにんじょう》の天地に逍遥《しょうよう》したいからの願《ねがい》。一つの酔興《すいきょう》だ。
 もちろん人間の一分子《いちぶんし》だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳《わけ》には行かぬ。淵明だって年《ねん》が年中《ねんじゅう》南山《なんざん》を見詰めていたのでもあるまいし、王維も好んで竹藪《たけやぶ》の中に蚊帳《かや》を釣らずに寝た男でもなかろう。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、生《は》えた筍《たけのこ》は八百屋《やおや》へ払い下げたものと思う。こう云う余もその通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が募《つの》ってはおらん。こんな所でも人間に逢《あ》う。じんじん端折《ばしょ》りの頬冠《ほおかむ》りや、赤い腰巻《こしまき》の姉《あね》さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。百万本の檜《ひのき》に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑《の》んだり吐いたりしても、人の臭《にお》いはなかなか取れない。それどころか、山を越えて落ちつく先の、今宵《こよい》の宿は那古井《なこい》の温泉場《おんせんば》だ。
 ただ、物は見様《みよう》でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言《ことば》に、あの鐘《かね》の音《おと》を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第《みようしだい》でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路《うきよこうじ》の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見《おのうはいけん》の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落《しちきおち》でも、墨田川《すみだがわ》でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情《じょう》三|分芸《ぶげい》七分で見せるわざだ。我らが能から享《う》けるありがた味は下界の人情をよくそのまま[#「そのまま」に傍点]に写す手際《てぎわ》から出てくるのではない。そのまま[#「そのまま」に傍点]の上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長《ゆうちょう》な振舞《ふるまい》をするからである。
 しばらくこの旅中《りょちゅう》に起る出来事と、旅中に出逢《であ》う人間を能の仕組《しくみ》と能役者の所作《しょさ》に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄《す》てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節倹してそこまでは漕《こ》ぎつけたいものだ。南山《なんざん》や幽篁《ゆうこう》とは性《たち》の違ったものに相違ないし、また雲雀《ひばり》や菜の花といっしょにする事も出来まいが、なるべくこれに近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視《み》てみたい。芭蕉《ばしょう》と云う男は枕元《まくらもと》へ馬が尿《いばり》するのをさえ雅《が》な事と見立てて発句《ほっく》にした。余もこれから逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺《じい》さんも婆《ばあ》さんも――ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似《まね》をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探《さ》ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤《じんじかっとう》の詮議立《せんぎだ》てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差《さ》し支《つかえ》ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳《わけ》に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐《ふところ》には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画《え》の前へ立って、画中の人物が画面の中《うち》をあちらこちらと騒ぎ廻るのを
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