ゥんがえ》が理《り》に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の観想《かんそう》を練りにわざわざ、鏡が池まで来はせぬ。袂《たもと》から煙草《たばこ》を出して、寸燐《マッチ》をシュッと擦《す》る。手応《てごたえ》はあったが火は見えない。敷島《しきしま》のさきに付けて吸ってみると、鼻から煙が出た。なるほど、吸ったんだなとようやく気がついた。寸燐《マッチ》は短かい草のなかで、しばらく雨竜《あまりょう》のような細い煙りを吐いて、すぐ寂滅《じゃくめつ》した。席をずらせてだんだん水際《みずぎわ》まで出て見る。余が茵は天然に池のなかに、ながれ込んで、足を浸《ひた》せば生温《なまぬる》い水につくかも知れぬと云う間際《まぎわ》で、とまる。水を覗《のぞ》いて見る。
 眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い水草《みずぐさ》が、往生《おうじょう》して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。岡の薄《すすき》なら靡《なび》く事を知っている。藻《も》の草ならば誘《さそ》う波の情《なさ》けを待つ。百年待っても動きそうもない、水の底に沈められたこの水草は、動くべきすべての姿勢を調《ととの》えて、朝な夕なに、弄《なぶ》らるる期を、待ち暮らし、待ち明かし、幾代《いくよ》の思《おもい》を茎《くき》の先に籠《こ》めながら、今に至るまでついに動き得ずに、また死に切れずに、生きているらしい。
 余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。功徳《くどく》になると思ったから、眼の先へ、一つ抛《ほう》り込んでやる。ぶくぶくと泡《あわ》が二つ浮いて、すぐ消えた。すぐ消えた、すぐ消えたと、余は心のうちで繰り返す。すかして見ると、三茎《みくき》ほどの長い髪が、慵《ものうげ》に揺れかかっている。見つかってはと云わぬばかりに、濁った水が底の方から隠しに来る。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。
 今度は思い切って、懸命に真中《まんなか》へなげる。ぽかんと幽《かす》かに音がした。静かなるものは決して取り合わない。もう抛《な》げる気も無くなった。絵の具箱と帽子を置いたまま右手へ廻る。
 二間余りを爪先上《つまさきあ》がりに登る。頭の上には大きな樹《き》がかぶさって、身体《からだ》が急に寒くなる。向う岸の暗い所に椿《つばき》が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向《ひなた》で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角《いわかど》を、奥へ二三間|遠退《とおの》いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑《しんかん》として、かたまっている。その花が! 一日|勘定《かんじょう》しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮《あざや》かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪《と》られた、後《あと》は何だか凄《すご》くなる。あれほど人を欺《だま》す花はない。余は深山椿《みやまつばき》を見るたびにいつでも妖女《ようじょ》の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然《えんぜん》たる毒を血管に吹く。欺《あざむ》かれたと悟《さと》った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入《い》った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒《さま》すほどの派出《はで》やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然《しょうぜん》として萎《しお》れる雨中《うちゅう》の梨花《りか》には、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶《えん》なる月下《げっか》の海棠《かいどう》には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味《み》を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部《うわべ》はどこまでも派出に装《よそお》っている。しかも人に媚《こ》ぶる態《さま》もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜《せいそう》を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼《ひとめ》見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際《こんりんざい》、免《のが》るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠《ほふ》られたる囚人《しゅうじん》の血が、自《おの》ずから人の眼を惹《ひ》いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩《くず》れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練《みれん》のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああや
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