蛯、」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一《きゅういち》でしょう」
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが嫌《きらい》な人ですね」
「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは私《わたく》しの従弟《いとこ》ですが、今度戦地へ行くので、暇乞《いとまごい》に来たのです」
「ここに留《とま》って、いるんですか」
「いいえ、兄の家《うち》におります」
「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より御白湯《おゆ》の方が好《すき》なんですよ。父がよせばいいのに、呼ぶものですから。麻痺《しびれ》が切れて困ったでしょう。私がおれば中途から帰してやったんですが……」
「あなたはどこへいらしったんです。和尚《おしょう》が聞いていましたぜ、また一人《ひとり》散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画《え》にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々《きんきん》投げるかも知れません」
余りに女としては思い切った冗談《じょうだん》だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧《かえり》みてにこりと笑った。茫然《ぼうぜん》たる事|多時《たじ》。
十
鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は二股《ふたまた》に岐《わか》れて、おのずから鏡が池の周囲となる。池の縁《ふち》には熊笹《くまざさ》が多い。ある所は、左右から生《お》い重なって、ほとんど音を立てずには通れない。木の間から見ると、池の水は見えるが、どこで始まって、どこで終るか一応廻った上でないと見当がつかぬ。あるいて見ると存外小さい。三丁ほどよりあるまい。ただ非常に不規則な形《かた》ちで、ところどころに岩が自然のまま水際《みずぎわ》に横《よこた》わっている。縁の高さも、池の形の名状しがたいように、波を打って、色々な起伏を不規則に連《つら》ねている。
池をめぐりては雑木《ぞうき》が多い。何百本あるか勘定《かんじょう》がし切れぬ。中には、まだ春の芽を吹いておらんのがある。割合に枝の繁《こ》まない所は、依然として、うららかな春の日を受けて、萌《も》え出でた下草《したぐさ》さえある。壺菫《つぼすみれ》の淡き影が、ちらりちらりとその間に見える。
日本の菫は眠っている感じである。「天来《てんらい》の奇想のように」、と形容した西人《せいじん》の句はとうていあてはまるまい。こう思う途端《とたん》に余の足はとまった。足がとまれば、厭《いや》になるまでそこにいる。いられるのは、幸福な人である。東京でそんな事をすれば、すぐ電車に引き殺される。電車が殺さなければ巡査が追い立てる。都会は太平の民《たみ》を乞食《こじき》と間違えて、掏摸《すり》の親分たる探偵《たんてい》に高い月俸を払う所である。
余は草を茵《しとね》に太平の尻をそろりと卸《おろ》した。ここならば、五六日こうしたなり動かないでも、誰も苦情を持ち出す気遣《きづかい》はない。自然のありがたいところはここにある。いざとなると容赦《ようしゃ》も未練《みれん》もない代りには、人に因《よ》って取り扱をかえるような軽薄な態度はすこしも見せない。岩崎《いわさき》や三井《みつい》を眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今《ここん》帝王の権威を風馬牛《ふうばぎゅう》し得るものは自然のみであろう。自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観《びょうどうかん》を無辺際《むへんさい》に樹立している。天下の羣小《ぐんしょう》を麾《さしまね》いで、いたずらにタイモンの憤《いきどお》りを招くよりは、蘭《らん》を九|※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]《えん》に滋《ま》き、※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]《けい》を百|畦《けい》に樹《う》えて、独《ひと》りその裏《うち》に起臥《きが》する方が遥かに得策である。余は公平と云い無私《むし》と云う。さほど大事《だいじ》なものならば、日に千人の小賊《しょうぞく》を戮《りく》して、満圃《まんぽ》の草花を彼らの屍《しかばね》に培養《つちか》うがよかろう。
何だか考《
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