チて落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺《あたり》は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々《ねんねん》落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶《と》け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間《ま》に、落ちた椿のために、埋《うず》もれて、元の平地《ひらち》に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂《ひとだま》のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
 こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を呑《の》んで、ぼんやり考え込む。温泉場《ゆば》の御那美《おなみ》さんが昨日《きのう》冗談《じょうだん》に云った言葉が、うねりを打って、記憶のうちに寄せてくる。心は大浪《おおなみ》にのる一枚の板子《いたご》のように揺れる。あの顔を種《たね》にして、あの椿の下に浮かせて、上から椿を幾輪も落とす。椿が長《とこしな》えに落ちて、女が長えに水に浮いている感じをあらわしたいが、それが画《え》でかけるだろうか。かのラオコーンには――ラオコーンなどはどうでも構わない。原理に背《そむ》いても、背かなくっても、そう云う心持ちさえ出ればいい。しかし人間を離れないで人間以上の永久と云う感じを出すのは容易な事ではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情では駄目だ。苦痛が勝ってはすべてを打《う》ち壊《こ》わしてしまう。と云ってむやみに気楽ではなお困る。一層《いっそ》ほかの顔にしては、どうだろう。あれか、これかと指を折って見るが、どうも思《おもわ》しくない。やはり御那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。物足らないとまでは気がつくが、どこが物足らないかが、吾《われ》ながら不明である。したがって自己の想像でいい加減に作り易《か》える訳に行かない。あれに嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]《しっと》を加えたら、どうだろう。嫉※[#「女+戸」、第3水準1−15−76]では不安の感が多過ぎる。憎悪《ぞうお》はどうだろう。憎悪は烈《は》げし過ぎる。怒《いかり》? 怒では全然調和を破る。恨《うらみ》? 恨でも春恨《しゅんこん》とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒《じょうしょ》のうちで、憐《あわ》れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情《じょう》で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟《とっさ》の衝動で、この情があの女の眉宇《びう》にひらめいた瞬時に、わが画《え》は成就《じょうじゅ》するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑《うすわらい》と、勝とう、勝とうと焦《あせ》る八の字のンである。あれだけでは、とても物にならない。
 がさりがさりと足音がする。胸裏《きょうり》の図案は三|分《ぶ》二で崩《くず》れた。見ると、筒袖《つつそで》を着た男が、背《せ》へ薪《まき》を載《の》せて、熊笹《くまざさ》のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭《てぬぐい》をとって挨拶《あいさつ》する。腰を屈《かが》める途端《とたん》に、三尺帯に落《おと》した鉈《なた》の刃《は》がぴかりと光った。四十|恰好《がっこう》の逞《たくま》しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々《なれなれ》しい。
「旦那《だんな》も画を御描《おか》きなさるか」余の絵の具箱は開《あ》けてあった。
「ああ。この池でも画《か》こうと思って来て見たが、淋《さみ》しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠《とうげ》で御降《おふ》られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前《おまえ》はあの時の馬子《まご》さんだね」
「はあい。こうやって薪《たきぎ》を切っては城下《じょうか》へ持って出ます」と源兵衛は荷を卸《おろ》して、その上へ腰をかける。煙草入《たばこいれ》を出す。古いものだ。紙だか革《かわ》だか分らない。余は寸燐《マッチ》を借《か》してやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日《みっか》に一|返《ぺん》、ことによると四日目《よっかめ》くらいになります」
「四日に一|返《ぺん》でも御免だ」
「ア
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