@を襲《おそ》う気分がした。
「こんな田舎《いなか》に一人《ひとり》では御淋《おさみ》しかろ」と和尚《おしょう》はすぐ余に話しかけた。
「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。淋《さび》しいと云えば、偽《いつわ》りである。淋しからずと云えば、長い説明が入る。
「なんの、和尚さん。このかたは画《え》を書かれるために来られたのじゃから、御忙《おいそ》がしいくらいじゃ」
「おお左様《さよう》か、それは結構だ。やはり南宗派《なんそうは》かな」
「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画か。すると、あの久一《きゅういち》さんのやられるようなものかな。あれは、わしこの間始めて見たが、随分奇麗にかけたのう」
「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「なあに、見ていただいたんじゃないですが、鏡《かがみ》が池《いけ》で写生しているところを和尚さんに見つかったのです」
「ふん、そうか――さあ御茶が注《つ》げたから、一杯」と老人は茶碗を各自《めいめい》の前に置く。茶の量は三四滴に過ぎぬが、茶碗はすこぶる大きい。生壁色《なまかべいろ》の地へ、焦《こ》げた丹《たん》と、薄い黄《き》で、絵だか、模様だか、鬼の面の模様になりかかったところか、ちょっと見当のつかないものが、べたに描《か》いてある。
「杢兵衛《もくべえ》です」と老人が簡単に説明した。
「これは面白い」と余も簡単に賞《ほ》めた。
「杢兵衛はどうも偽物《にせもの》が多くて、――その糸底《いとぞこ》を見て御覧なさい。銘《めい》があるから」と云う。
 取り上げて、障子《しょうじ》の方へ向けて見る。障子には植木鉢の葉蘭《はらん》の影が暖かそうに写っている。首を曲《ま》げて、覗《のぞ》き込むと、杢《もく》の字が小さく見える。銘は観賞の上において、さのみ大切のものとは思わないが、好事者《こうずしゃ》はよほどこれが気にかかるそうだ。茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘《あま》く、湯加減《ゆかげん》に出た、重い露を、舌の先へ一しずくずつ落して味《あじわ》って見るのは閑人適意《かんじんてきい》の韻事《いんじ》である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭《ぜっとう》へぽたりと載《の》せて、清いものが四方へ散れば咽喉《のど》へ下《くだ》るべき液はほとんどない。ただ馥郁《ふくいく》たる匂《におい》が食道から胃のなかへ沁《し》み渡るのみである。歯を用いるは卑《いや》しい。水はあまりに軽い。玉露《ぎょくろ》に至っては濃《こまや》かなる事、淡水《たんすい》の境《きょう》を脱して、顎《あご》を疲らすほどの硬《かた》さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。
 老人はいつの間にやら、青玉《せいぎょく》の菓子皿を出した。大きな塊《かたまり》を、かくまで薄く、かくまで規則正しく、刳《く》りぬいた匠人《しょうじん》の手際《てぎわ》は驚ろくべきものと思う。すかして見ると春の日影は一面に射《さ》し込んで、射し込んだまま、逃《の》がれ出《い》ずる路《みち》を失ったような感じである。中には何も盛らぬがいい。
「御客さんが、青磁《せいじ》を賞《ほ》められたから、今日はちとばかり見せようと思うて、出して置きました」
「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも好《すき》じゃ。時にあなた、西洋画では襖《ふすま》などはかけんものかな。かけるなら一つ頼みたいがな」
 かいてくれなら、かかぬ事もないが、この和尚《おしょう》の気に入《い》るか入らぬかわからない。せっかく骨を折って、西洋画は駄目だなどと云われては、骨の折栄《おりばえ》がない。
「襖には向かないでしょう」
「向かんかな。そうさな、この間《あいだ》の久一さんの画《え》のようじゃ、少し派手《はで》過ぎるかも知れん」
「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、恥《はず》かしがって謙遜《けんそん》する。
「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、幽邃《ゆうすい》な所です。――なあに学校にいる時分、習ったから、退屈まぎれに、やって見ただけです」
「観海寺と云うと……」
「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を一目《ひとめ》に見下《みおろ》しての――まあ逗留《とうりゅう》中にちょっと来て御覧。なに、ここからはつい五六丁よ。あの廊下から、そら、寺の石段が見えるじ
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