ゥかと》につく頃、平《ひら》たき足が、すべての葛藤《かっとう》を、二枚の蹠《あしのうら》に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑《さくざつ》した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔《やわ》らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛《れいふん》のなかに髣髴《ほうふつ》として、十分《じゅうぶん》の美を奥床《おくゆか》しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗《へんりん》を溌墨淋漓《はつぼくりんり》の間《あいだ》に点じて、※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]竜《きゅうりょう》の怪《かい》を、楮毫《ちょごう》のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《めいばく》なる調子とを具《そな》えている。六々三十六|鱗《りん》を丁寧に描きたる竜《りゅう》の、滑稽《こっけい》に落つるが事実ならば、赤裸々《せきらら》の肉を浄洒々《じょうしゃしゃ》に眺めぬうちに神往の余韻《よいん》はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂《かつら》の都《みやこ》を逃れた月界《げっかい》の嫦娥《じょうが》が、彩虹《にじ》の追手《おって》に取り囲まれて、しばらく躊躇《ちゅうちょ》する姿と眺《なが》めた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥《じょうが》が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那《せつな》に、緑の髪は、波を切る霊亀《れいき》の尾のごとくに風を起して、莽《ぼう》と靡《なび》いた。渦捲《うずま》く煙りを劈《つんざ》いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向《むこう》へ遠退《とおの》く。余はがぶりと湯を呑《の》んだまま槽《ふね》の中に突立《つった》つ。驚いた波が、胸へあたる。縁《ふち》を越す湯泉《ゆ》の音がさあさあと鳴る。
八
御茶の御馳走《ごちそう》になる。相客《あいきゃく》は僧一人、観海寺《かんかいじ》の和尚《おしょう》で名は大徹《だいてつ》と云うそうだ。俗《ぞく》一人、二十四五の若い男である。
老人の部屋は、余が室《しつ》の廊下を右へ突き当って、左へ折れた行《い》き留《どま》りにある。大《おおき》さは六畳もあろう。大きな紫檀《したん》の机を真中に据《す》えてあるから、思ったより狭苦しい。それへと云う席を見ると、布団《ふとん》の代りに花毯《かたん》が敷いてある。無論支那製だろう。真中を六角に仕切《しき》って、妙な家と、妙な柳が織り出してある。周囲《まわり》は鉄色に近い藍《あい》で、四隅《よすみ》に唐草《からくさ》の模様を飾った茶の輪《わ》を染め抜いてある。支那ではこれを座敷に用いたものか疑わしいが、こうやって布団に代用して見るとすこぶる面白い。印度《インド》の更紗《さらさ》とか、ペルシャの壁掛《かべかけ》とか号するものが、ちょっと間《ま》が抜けているところに価値があるごとく、この花毯もこせつかないところに趣《おもむき》がある。花毯ばかりではない、すべて支那の器具は皆抜けている。どうしても馬鹿で気の長い人種の発明したものとほか取れない。見ているうちに、ぼおっとするところが尊《とう》とい。日本は巾着切《きんちゃくき》りの態度で美術品を作る。西洋は大きくて細《こま》かくて、そうしてどこまでも娑婆気《しゃばっけ》がとれない。まずこう考えながら席に着く。若い男は余とならんで、花毯の半《なかば》を占領した。
和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の膝《ひざ》の傍を通り越して、頭は老人の臀《しり》の下に敷かれている。老人は頭の毛をことごとく抜いて、頬と顎《あご》へ移植したように、白い髯《ひげ》をむしゃむしゃと生《は》やして、茶托《ちゃたく》へ載《の》せた茶碗を丁寧に机の上へならべる。
「今日《きょう》は久し振りで、うちへ御客が見えたから、御茶を上げようと思って、……」と坊さんの方を向くと、
「いや、御使《おつかい》をありがとう。わしも、だいぶ御無沙汰《ごぶさた》をしたから、今日ぐらい来て見ようかと思っとったところじゃ」と云う。この僧は六十近い、丸顔の、達磨《だるま》を草書《そうしょ》に崩《くず》したような容貌《ようぼう》を有している。老人とは平常《ふだん》からの昵懇《じっこん》と見える。
「この方《かた》が御客さんかな」
老人は首肯《うなずき》ながら、朱泥《しゅでい》の急須《きゅうす》から、緑を含む琥珀色《こはくいろ》の玉液《ぎょくえき》を、二三滴ずつ、茶碗の底へしたたらす。清い香《かお》りがかすかに
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