ゥ》されて、夜と昼との境のごとき心地《ここち》である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装《よそおい》をして、この不思議な歩行《あゆみ》をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝《ゆ》く春の恨《うらみ》を訴うる所作《しょさ》ならば何が故《ゆえ》にかくは無頓着《むとんじゃく》なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅《きら》を飾れる。
暮れんとする春の色の、嬋媛《せんえん》として、しばらくは冥※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《めいばく》の戸口をまぼろしに彩《いろ》どる中に、眼も醒《さ》むるほどの帯地《おびじ》は金襴《きんらん》か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然《そうぜん》たる夕べのなかにつつまれて、幽闃《ゆうげき》のあなた、遼遠《りょうえん》のかしこへ一分ごとに消えて去る。燦《きら》めき渡る春の星の、暁《あかつき》近くに、紫深き空の底に陥《おち》いる趣《おもむき》である。
太玄《たいげん》の※[#「門<昏」、第3水準1−93−52]《もん》おのずから開《ひら》けて、この華《はな》やかなる姿を、幽冥《ゆうめい》の府《ふ》に吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金屏《きんびょう》を背に、銀燭《ぎんしょく》を前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装《よそおい》の、厭《いと》う景色《けしき》もなく、争う様子も見えず、色相《しきそう》世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼《せま》る黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦《せ》きもせず、狼狽《うろたえ》もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊《はいかい》しているらしい。身に落ちかかる災《わざわい》を知らぬとすれば無邪気の極《きわみ》である。知って、災と思わぬならば物凄《ものすご》い。黒い所が本来の住居《すまい》で、しばらくの幻影《まぼろし》を、元《もと》のままなる冥漠《めいばく》の裏《うち》に収めればこそ、かように間※[#「(靜−爭)+見」、第3水準1−93−75]《かんせい》の態度で、有《う》と無《む》の間《あいだ》に逍遥《しょうよう》しているのだろう。女のつけた振袖に、紛《ふん》たる模様の尽きて、是非もなき磨墨《するすみ》に流れ込むあたりに、おのが身の素性《すじょう》をほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚《うつつ》のままで、この世の呼吸《いき》を引き取るときに、枕元に病《やまい》を護《まも》るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐《いきがい》のない本人はもとより、傍《はた》に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦《あき》らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科《とが》があろう。眠りながら冥府《よみ》に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果《はた》すと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃《のが》れぬ定業《じょうごう》と得心もさせ、断念もして、念仏を唱《とな》えたい。死ぬべき条件が具《そな》わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と回向《えこう》をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮《か》りの眠りから、いつの間《ま》とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩《ぼんのう》の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏《おだや》かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡《うち》から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否《いな》や、何だか口が聴《き》けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途端《とたん》に、女はまた通る。こちらに窺《うかが》う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵《みじん》も気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手《しょて》から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が
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