ニ感ずる心裏《しんり》の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次《ていじ》に展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来《きた》り、二が消えて三が生まるるがために嬉《うれ》しいのではない。初から窈然《ようぜん》として同所《どうしょ》に把住《はじゅう》する趣《おもむ》きで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按排《あんばい》する必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる景情《けいじょう》を詩中に持ち来って、この曠然《こうぜん》として倚托《きたく》なき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕《とら》え得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進捗《しんちょく》する出来事の助けを藉《か》らずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充《み》たしさえすれば、言語をもって描《えが》き得るものと思う。
 議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、画《え》にしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の尖《と》がった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫《ごう》も運動させる訳《わけ》に行かなかった。急に朋友《ほうゆう》の名を失念して、咽喉《のど》まで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで諦《あきら》めると、出損《でそく》なった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
 葛湯《くずゆ》を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸《はし》に手応《てごたえ》がないものだ。そこを辛抱《しんぼう》すると、ようやく粘着《ねばり》が出て、攪《か》き淆《ま》ぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋《なべ》の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
 手掛《てがか》りのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
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青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。※[#「虫+蕭」、第4水準2−87−94]蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
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と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り易《やす》かったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない情《じょう》を、次には咏《うた》って見たい。あれか、これかと思い煩《わずら》った末とうとう、
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独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]白雲郷。
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と出来た。もう一返《いっぺん》最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入《はい》った神境を写したものとすると、索然《さくぜん》として物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖《ふすま》を引いて、開《あ》け放《はな》った幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。
 余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
 一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿《ふりそですがた》のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側《えんがわ》を寂然《じゃくねん》として歩行《あるい》て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
 花曇《はなぐも》りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干《らんかん》に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六|間《けん》の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥《しょうりょう》と見えつ、隠れつする。
 女はもとより口も聞かぬ。傍目《わきめ》も触《ふ》らぬ。椽《えん》に引く裾《すそ》の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行《ある》いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様《すそもよう》は何を染め抜いたものか、遠くて解《わ》からぬ。ただ無地《むじ》と模様のつながる中が、おのずから暈《ぼ
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