マ化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画《え》にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖《ほおづえ》をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子《わがこ》を尋ね当てるため、六十余州を回国《かいこく》して、寝《ね》ても寤《さ》めても、忘れる間《ま》がなかったある日、十字街頭にふと邂逅《かいこう》して、稲妻《いなずま》の遮《さえ》ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵《ののし》られても恨《うらみ》はない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直《きょくちょく》がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻《ふういん》のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭《いと》わない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖《じょう》のなかへ落ち込むまで、工夫《くふう》したが、とても物にならん。
 鉛筆を置いて考えた。こんな抽象的《ちゅうしょうてき》な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。
 たちまち音楽[#「音楽」に傍点]の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼《せま》られて生まれた自然の声であろう。楽《がく》は聴《き》くべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
 次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界《きょうがい》もとうてい物になりそうにない。余が嬉しい
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