スのしみ》がある。風に揉《も》まれて上《うわ》の空《そら》なる波を起す、軽薄で騒々しい趣《おもむき》とは違う。目に見えぬ幾尋《いくひろ》の底を、大陸から大陸まで動いている※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]洋《こうよう》たる蒼海《そうかい》の有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念《けねん》が籠《こも》る。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈《はげ》しき力の銷磨《しょうま》しはせぬかとの憂《うれい》を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕《とら》え難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞《おそれ》を含んではおらぬ。冲融《ちゅうゆう》とか澹蕩《たんとう》とか云う詩人の語はもっともこの境《きょう》を切実に言い了《おお》せたものだろう。
 この境界《きょうがい》を画《え》にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼前《がんぜん》の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過《ろくか》して、絵絹《えぎぬ》の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事《のうじ》は終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地《いっとうち》を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣《おもむき》を添えて、画布の上に淋漓《りんり》として生動《せいどう》させる。ある特別の感興を、己《おの》が捕えたる森羅《しんら》の裡《うち》に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭《めいりょう》に筆端に迸《ほとば》しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己《おの》れはしかじかの事を、しかじかに観《み》、しかじかに感じたり、その観方《みかた》も感じ方も、前人《ぜんじん》の籬下《りか》に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
 この二種の製作家に主客《しゅかく》深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共
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