も済んだ訳だね」
「ところが――先方《さき》でも器量望みで御貰《おもら》いなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと強《し》いられて御出なさったのだから、どうも折合《おりあい》がわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとは極々《ごくごく》内気《うちき》の優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」
これからさきを聞くと、せっかくの趣向《しゅこう》が壊《こわ》れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣《はごろも》を帰せ帰せと催促《さいそく》するような気がする。七曲《ななまが》りの険を冒《おか》して、やっとの思《おもい》で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり下《おろ》されては、飄然《ひょうぜん》と家を出た甲斐《かい》がない。世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の臭《にお》いが毛孔《けあな》から染込《しみこ》んで、垢《あか》で身体《からだ》が重くなる。
「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚|床几《しょうぎ》の上へかちりと投げ出して立ち上がる。
「長良《ながら》の五輪塔から右へ御下《おくだ》りなさると、六丁ほどの近道になります。路《みち》はわるいが、御若い方にはその方《ほう》がよろしかろ。――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」
三
昨夕《ゆうべ》は妙な気持ちがした。
宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の具合《ぐあい》庭の作り方は無論、東西の区別さえわからなかった。何だか廻廊のような所をしきりに引き廻されて、しまいに六畳ほどの小さな座敷へ入れられた。昔《むか》し来た時とはまるで見当が違う。晩餐《ばんさん》を済まして、湯に入《い》って、室《へや》へ帰って茶を飲んでいると、小女《こおんな》が来て床《とこ》を延《の》べよかと云《い》う。
不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、晩食《ばんめし》の給仕も、湯壺《ゆつぼ》への案内も、床を敷く面倒も、ことごとくこの小女一人で弁じている。それで口は滅多《めった》にきかぬ。と云うて、田舎染《いなかじ》みても
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