を喞《かこ》つものは幸の部に属する人である。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の疾《と》き趣《おもむき》を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ仙《せん》に近づける方だろう。余はこう答えた。
「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。湯治場《とうじば》へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里にいるのかい。やはり裾模様《すそもよう》の振袖《ふりそで》を着て、高島田に結《い》っていればいいが」
「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外|真面目《まじめ》である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。婆さんが云う。
「嬢様と長良《ながら》の乙女《おとめ》とはよく似ております」
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「昔《むか》しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者《ちょうじゃ》の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に懸想《けそう》して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に靡《なび》こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩《わずら》ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
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あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
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と云う歌を咏《よ》んで、淵川《ふちかわ》へ身を投げて果《は》てました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅《こが》な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ下《くだ》ると、道端《みちばた》に五輪塔《ごりんのとう》が御座んす。ついでに長良《ながら》の乙女《おとめ》の墓を見て御行きなされ」
余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が祟《たた》りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て御出《おい》での頃|御逢《おあ》いなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」
「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な理由《わけ》もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」
「めでたく、淵川《ふちかわ》へ身を投げんで
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