おらぬ。赤い帯を色気《いろけ》なく結んで、古風な紙燭《しそく》をつけて、廊下のような、梯子段《はしごだん》のような所をぐるぐる廻わらされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降《お》りて、湯壺へ連れて行かれた時は、すでに自分ながら、カンヴァスの中を往来しているような気がした。
給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段《ふだん》使っている部屋で我慢してくれと云った。床を延べる時にはゆるりと御休みと人間らしい、言葉を述べて、出て行ったが、その足音が、例の曲りくねった廊下を、次第に下の方へ遠《とおざ》かった時に、あとがひっそりとして、人の気《け》がしないのが気になった。
生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州《ぼうしゅう》を館山《たてやま》から向うへ突き抜けて、上総《かずさ》から銚子《ちょうし》まで浜伝いに歩行《あるい》た事がある。その時ある晩、ある所へ宿《とまっ》た。ある所と云うよりほかに言いようがない。今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。第一宿屋へとまったのかが問題である。棟《むね》の高い大きな家に女がたった二人いた。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方がはいと云って、若い方がこちらへと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間《ま》をいくつも通り越して一番奥の、中二階《ちゅうにかい》へ案内をした。三段登って廊下から部屋へ這入《はい》ろうとすると、板庇《いたびさし》の下に傾《かたむ》きかけていた一叢《ひとむら》の修竹《しゅうちく》が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫《な》でたので、すでにひやりとした。椽板《えんいた》はすでに朽《く》ちかかっている。来年は筍《たけのこ》が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。
その晩は例の竹が、枕元で婆娑《ばさ》ついて、寝られない。障子《しょうじ》をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月明《つきあきら》かなるに、眼を走《は》しらせると、垣も塀《へい》もあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向うはすぐ大海原《おおうなばら》でどどんどどんと大きな濤《なみ》が人の世を威嚇《おどか》しに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な蚊帳《かや》のうちに辛防《し
前へ
次へ
全109ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング