チぷ》はすでに買うてある。
「さあ、行きましょ」と那美さんが立つ。
「どうれ」と老人も立つ。一行は揃《そろ》って改札場《かいさつば》を通り抜けて、プラットフォームへ出る。号鈴《ベル》がしきりに鳴る。
轟《ごう》と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の長蛇《ちょうだ》が蜿蜒《のたくっ》て来る。文明の長蛇は口から黒い煙を吐く。
「いよいよ御別かれか」と老人が云う。
「それでは御機嫌《ごきげん》よう」と久一さんが頭を下げる。
「死んで御出《おい》で」と那美さんが再び云う。
「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。
蛇は吾々《われわれ》の前でとまる。横腹の戸がいくつもあく。人が出たり、這入《はい》ったりする。久一さんは乗った。老人も兄さんも、那美さんも、余もそとに立っている。
車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝《えんしょう》の臭《にお》いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑《すべ》って、むやみに転《ころ》ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺《なが》めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果《いんが》はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互《おたがい》の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔《へだた》っているだけで、因果はもう切れかかっている。
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉《た》てながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為《な》った。老人は思わず窓側《まどぎわ》へ寄る。青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練《みれん》のない鉄車《てっしゃ》の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等《われわれ》の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
茶色のはげた中折帽の下から、髯《ひげ》だらけな野武士が名残《なご》り惜気《おしげ》に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合《みあわ》せた。鉄車《てっしゃ》はごとりごとりと運転する
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