ェ》りはもう少し左りになりますね」
「七曲りは、向うへ、ずっと外《そ》れます。あの山のまた一つ先きの山ですよ」
「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が懸《かか》ってるあたりでしょう」
「ええ、方角はあの辺《へん》です」
 居眠をしていた老人は、舷《こべり》から、肘《ひじ》を落して、ほいと眼をさます。
「まだ着かんかな」
 胸膈《きょうかく》を前へ出して、右の肘《ひじ》を後《うし》ろへ張って、左り手を真直に伸《の》して、ううんと欠伸《のび》をするついでに、弓を攣《ひ》く真似をして見せる。女はホホホと笑う。
「どうもこれが癖で、……」
「弓が御好《おすき》と見えますね」と余も笑いながら尋ねる。
「若いうちは七分五厘まで引きました。押《お》しは存外今でもたしかです」と左の肩を叩《たた》いて見せる。舳《へさき》では戦争談が酣《たけなわ》である。
 舟はようやく町らしいなかへ這入《はい》る。腰障子に御肴《おんさかな》と書いた居酒屋が見える。古風《こふう》な縄暖簾《なわのれん》が見える。材木の置場が見える。人力車の音さえ時々聞える。乙鳥《つばくろ》がちちと腹を返して飛ぶ。家鴨《あひる》ががあがあ鳴く。一行は舟を捨てて停車場《ステーション》に向う。
 いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟《ごう》と通る。情《なさ》け容赦《ようしゃ》はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]《じょうき》の恩沢《おんたく》に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑《けいべつ》したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前《ひとりまえ》何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵《てっさく》を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇《おど》かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅《ほしいまま》にしたものが、この
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