翌フ唄《うた》が、はああい、いようう――と水の上まで響く。何を唄うのやらいっこう分らぬ。
「先生、わたくしの画《え》をかいて下さいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
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春風にそら解《ど》け繻子《しゅす》の銘は何
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と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな一筆《ひとふで》がきでは、いけません。もっと私の気象《きしょう》の出るように、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画《え》にならない」
「御挨拶《ごあいさつ》です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」
「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」
「持って生れた顔はいろいろになるものです」
「自分の勝手にですか」
「ええ」
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
 女は黙って向《むこう》をむく。川縁《かわべり》はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面《いちめん》のげんげんで埋《うずま》っている。鮮《あざ》やかな紅《べに》の滴々《てきてき》が、いつの雨に流されてか、半分|溶《と》けた花の海は霞《かすみ》のなかに果《はて》しなく広がって、見上げる半空《はんくう》には崢※[#「山+榮」、第3水準1−47−92]《そうこう》たる一|峰《ぽう》が半腹《はんぷく》から微《ほの》かに春の雲を吐いている。
「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を舷《ふなばた》から外へ出して、夢のような春の山を指《さ》す。
「天狗岩《てんぐいわ》はあの辺ですか」
「あの翠《みどり》の濃い下の、紫に見える所がありましょう」
「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。禿《は》げてるんでしょう」
「なあに凹《くぼ》んでるんですよ。禿げていりゃ、もっと茶に見えます」
「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、七曲《ななま
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