B大に考え込むようにもある。人を待ち合せる風にも取られる。何だかわからない。
 余はこの物騒《ぶっそう》な男から、ついに吾眼をはなす事ができなかった。別に恐しいでもない、また画《え》にしようと云う気も出ない。ただ眼をはなす事ができなかった。右から左、左りから右と、男に添うて、眼を働かせているうちに、男ははたと留った。留ると共に、またひとりの人物が、余が視界に点出《てんしゅつ》された。
 二人は双方《そうほう》で互に認識したように、しだいに双方から近づいて来る。余が視界はだんだん縮《ちぢ》まって、原の真中で一点の狭《せま》き間に畳《たた》まれてしまう。二人は春の山を背《せ》に、春の海を前に、ぴたりと向き合った。
 男は無論例の野武士《のぶし》である。相手は? 相手は女である。那美《なみ》さんである。
 余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや懐《ふところ》に呑《の》んでおりはせぬかと思ったら、さすが非人情《ひにんじょう》の余もただ、ひやりとした。
 男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く景色《けしき》は見えぬ。口は動かしているかも知れんが、言葉はまるで聞えぬ。男はやがて首を垂《た》れた。女は山の方を向く。顔は余の眼に入らぬ。
 山では鶯《うぐいす》が啼《な》く。女は鶯に耳を借して、いるとも見える。しばらくすると、男は屹《きっ》と、垂れた首を挙げて、半《なか》ば踵《くびす》を回《めぐ》らしかける。尋常の様《さま》ではない。女は颯《さっ》と体を開いて、海の方へ向き直る。帯の間から頭を出しているのは懐剣《かいけん》らしい。男は昂然《こうぜん》として、行きかかる。女は二歩《ふたあし》ばかり、男の踵を縫《ぬ》うて進む。女は草履《ぞうり》ばきである。男の留《とま》ったのは、呼び留められたのか。振り向く瞬間に女の右手《めて》は帯の間へ落ちた。あぶない!
 するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、財布《さいふ》のような包み物である。差し出した白い手の下から、長い紐《ひも》がふらふらと春風《しゅんぷう》に揺れる。
 片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い手頸《てくび》に、紫の包。これだけの姿勢で充分|画《え》にはなろう。
 紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の体《たい》のこなし具合で、うまい按排《あんば
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