uハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの御袋様《おふくろさま》がやはり少し変でな」
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年|亡《な》くなりました」
「ふん」と余は煙草の吸殻《すいがら》から細い煙の立つのを見て、口を閉じた。源兵衛は薪《まき》を背《せ》にして去る。
 画《え》をかきに来て、こんな事を考えたり、こんな話しを聴くばかりでは、何日《いくにち》かかっても一枚も出来っこない。せっかく絵の具箱まで持ち出した以上、今日は義理にも下絵《したえ》をとって行こう。幸《さいわい》、向側の景色は、あれなりで略纏《ほぼまと》まっている。あすこでも申《もう》し訳《わけ》にちょっと描《か》こう。
 一丈余りの蒼黒《あおぐろ》い岩が、真直《まっすぐ》に池の底から突き出して、濃《こ》き水の折れ曲る角《かど》に、嵯々《ささ》と構える右側には、例の熊笹《くまざさ》が断崖《だんがい》の上から水際《みずぎわ》まで、一寸《いっすん》の隙間《すきま》なく叢生《そうせい》している。上には三抱《みかかえ》ほどの大きな松が、若蔦《わかづた》にからまれた幹を、斜《なな》めに捩《ねじ》って、半分以上水の面《おもて》へ乗り出している。鏡を懐《ふところ》にした女は、あの岩の上からでも飛んだものだろう。
 三脚几《さんきゃくき》に尻《しり》を据《す》えて、面画に入るべき材料を見渡す。松と、笹と、岩と水であるが、さて水はどこでとめてよいか分らぬ。岩の高さが一丈あれば、影も一丈ある。熊笹は、水際でとまらずに、水の中まで茂り込んでいるかと怪《あやし》まるるくらい、鮮《あざ》やかに水底まで写っている。松に至っては空に聳《そび》ゆる高さが、見上げらるるだけ、影もまたすこぶる細長い。眼に写っただけの寸法ではとうてい収《おさま》りがつかない。一層《いっそ》の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫《くふう》をしたものだろうと、一心に池の面《おも》を見詰める。
 奇体なもので、影だけ眺《なが》めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸《ひとみ》を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈
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