nハハハ。馬が不憫《ふびん》ですから四日目くらいにして置きます」
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、志保田《しほだ》の嬢様が、身を投げた時分からありますよ」
「志保田って、あの温泉場《ゆば》のかい」
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、一人《ひとり》の梵論字《ぼろんじ》が来て……」
「梵論字と云うと虚無僧《こもそう》の事かい」
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋《しょうや》へ逗留《とうりゅう》しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染《みそ》めて――因果《いんが》と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は聟《むこ》にはならんと云うて。とうとう追い出しました」
「その虚無僧《こもそう》[#ルビの「こもそう」は底本では「こむそう」]をかい」
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに怪《け》しからん事でござんす」
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、代々《だいだい》気狂《きちがい》が出来ます」
「へええ」
「全く祟《たた》りでござんす。今の嬢様も、近頃は少し変だ云うて、皆が囃《はや》します」

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