B恨《うらみ》? 恨でも春恨《しゅんこん》とか云う、詩的のものならば格別、ただの恨では余り俗である。いろいろに考えた末、しまいにようやくこれだと気がついた。多くある情緒《じょうしょ》のうちで、憐《あわ》れと云う字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情《じょう》で、しかも神にもっとも近き人間の情である。御那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。ある咄嗟《とっさ》の衝動で、この情があの女の眉宇《びう》にひらめいた瞬時に、わが画《え》は成就《じょうじゅ》するであろう。しかし――いつそれが見られるか解らない。あの女の顔に普段充満しているものは、人を馬鹿にする微笑《うすわらい》と、勝とう、勝とうと焦《あせ》る八の字のンである。あれだけでは、とても物にならない。
 がさりがさりと足音がする。胸裏《きょうり》の図案は三|分《ぶ》二で崩《くず》れた。見ると、筒袖《つつそで》を着た男が、背《せ》へ薪《まき》を載《の》せて、熊笹《くまざさ》のなかを観海寺の方へわたってくる。隣りの山からおりて来たのだろう。
「よい御天気で」と手拭《てぬぐい》をとって挨拶《あいさつ》する。腰を屈《かが》める途端《とたん》に、三尺帯に落《おと》した鉈《なた》の刃《は》がぴかりと光った。四十|恰好《がっこう》の逞《たくま》しい男である。どこかで見たようだ。男は旧知のように馴々《なれなれ》しい。
「旦那《だんな》も画を御描《おか》きなさるか」余の絵の具箱は開《あ》けてあった。
「ああ。この池でも画《か》こうと思って来て見たが、淋《さみ》しい所だね。誰も通らない」
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、峠《とうげ》で御降《おふ》られなさって、さぞ御困りでござんしたろ」
「え? うん御前《おまえ》はあの時の馬子《まご》さんだね」
「はあい。こうやって薪《たきぎ》を切っては城下《じょうか》へ持って出ます」と源兵衛は荷を卸《おろ》して、その上へ腰をかける。煙草入《たばこいれ》を出す。古いものだ。紙だか革《かわ》だか分らない。余は寸燐《マッチ》を借《か》してやる。
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。三日《みっか》に一|返《ぺん》、ことによると四日目《よっかめ》くらいになります」
「四日に一|返《ぺん》でも御免だ」
「ア
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