蛯、。――この一夜《ひとよ》と女が云う。一夜? と男がきく。一と限るはつれなし、幾夜《いくよ》を重ねてこそと云う」
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める語《ことば》なんです。――真夜中の甲板《かんぱん》に帆綱を枕にして横《よこた》わりたる、男の記憶には、かの瞬時、熱き一滴の血に似たる瞬時、女の手を確《しか》と把《と》りたる瞬時が大濤《おおなみ》のごとくに揺れる。男は黒き夜を見上げながら、強《し》いられたる結婚の淵《ふち》より、是非に女を救い出さんと思い定めた。かく思い定めて男は眼を閉《と》ずる。――」
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ様《さま》である。攫《さら》われて空行く人のごとく、ただ不可思議の千万無量――あとがちょっと読みにくいですよ。どうも句にならない。――ただ不可思議の千万無量――何か動詞はないでしょうか」
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
轟《ごう》と音がして山の樹《き》がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端《とたん》に、机の上の一輪挿《いちりんざし》に活《い》けた、椿《つばき》がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝《ひざ》を崩《くず》して余の机に靠《よ》りかかる。御互《おたがい》の身躯《からだ》がすれすれに動く。キキーと鋭《する》どい羽摶《はばたき》をして一羽の雉子《きじ》が藪《やぶ》の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄《すりよ》せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸《いき》が余の髭《ひげ》にさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居《いずまい》を正しながら屹《きっ》と云う。
「無論」と言下《ごんか》に余は答えた。
岩の凹《くぼ》みに湛《たた》えた春の水が、驚ろいて、のたりのたりと鈍《ぬる》く揺《うご》いている。地盤の響きに、満泓《まんおう》の波が底から動くのだから、表面が不規則に曲線を描くのみで、砕《くだ》けた部分はどこにもない。円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》していた山桜が、水と共に、
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