「い加減ですよ。ところどころ脱けるかも知れません」
「よござんすとも。御都合次第で、御足《おた》しなすっても構いません」
「女は男とならんで舷《ふなばた》に倚《よ》る。二人の隔《へだた》りは、風に吹かるるリボンの幅よりも狭い。女は男と共にヴェニスに去らばと云う。ヴェニスなるドウジの殿楼《でんろう》は今第二の日没のごとく、薄赤く消えて行く。……」
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。昔《むか》しヴェニスを支配した人間の名ですよ。何代つづいたものですかね。その御殿が今でもヴェニスに残ってるんです」
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと探偵《たんてい》になってしまうです」
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも趣《おもむき》がない」
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く一抹《いちまつ》の淡き線となる。線は切れる。切れて点となる。蛋白石《とんぼだま》の空のなかに円《まる》き柱が、ここ、かしこと立つ。ついには最も高く聳《そび》えたる鐘楼《しゅろう》が沈む。沈んだと女が云う。ヴェニスを去る女の心は空行く風のごとく自由である。されど隠れたるヴェニスは、再び帰らねばならぬ女の心に覊絏《きせつ》の苦しみを与う。男と女は暗き湾の方《かた》に眼を注ぐ。星は次第に増す。柔らかに揺《ゆら》ぐ海は泡《あわ》を濺《そそ》がず。男は女の手を把《と》る。鳴りやまぬ弦《ゆづる》を握った心地《ここち》である。……」
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし厭《いや》なら少々略しましょうか」
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく六《む》ずかしくなって来たな。どうも訳し――いや読みにくい」
「読みにくければ、御略《おりゃく》しなさい」
「ええ、いい加減にやりまし
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