良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固《もと》より洪水《こうずゐ》飢饉《ききん》と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢《しし》必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変|俄然《がぜん》として己霊の光輝を失して、奈落《ならく》に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時《このとき》に方《あた》つて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法《ぢやうはふ》なり、されども自ら死を決して人を殺すものは寡《すく》なし、呼息|逼《せま》り白刃《はくじん》閃《ひらめ》く此|刹那《せつな》、既に身あるを知らず、焉《いづく》んぞ敵あるを知らんや、電光|影裡《えいり》に春風を斫《き》るものは、人意か将《は》た天意か
 青門|老圃《らうほ》独《ひと》り一室の中に坐し、冥思《めいし》遐捜《かさう》す、両頬|赤《せき》を発し火の如く、喉間《こうかん》咯々《かく/\》声あるに至る、稿を属《しょく》し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方《あた》つて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣を牽《ひ》き、床を遶《めぐ》りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊《はいくわい》す、或は呻吟《しんぎん》し、或は低唱す、忽ちにして大声放歌|欷歔《ききょ》涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意か将《は》た天意か
 「デクインシー」曰く、世には人心の如何《いか》に善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、豈《あに》啻《たゞ》善悪のみならん、怯勇《けふゆう》剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞《そふん》梁上《りやうじやう》より墜《お》ちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮《せん》なし、源氏征討の宣旨《せんじ》を蒙《かうむ》りて、遥々《はる/″\》富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢《いつし》も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むもの
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