ちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教《おす》わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主《なぬし》がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利《き》いたかも知れないが、それを誇《ほこり》にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭《いや》な心持は疾《と》くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。
 私が早稲田《わせだ》に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居《すまい》に移る前、家《うち》を探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦《ふるがわら》が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表から覗《のぞ》くと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸《かか》っていた。私は昔の早稲田|田圃《たんぼ》が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来《ねごろ》の茶畠《ちゃばたけ》と竹藪《たけやぶ》を一目《ひとめ》眺めたかった。しかしその痕迹《こんせき》はどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当《けんとう》は、当っているのか、外《はず》れているのか、それさえ不明であった。
 私は茫然《ぼうぜん》として佇立《ちょりつ》した。なぜ私の家だけが過去の残骸《ざんがい》のごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩《くず》れてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗《きれい》に取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。その傍《そば》には質屋もできていた。質屋の前に疎《まば》らな囲《かこい》をして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児《きけいじ》のようになっていたが、どこか見覚《みおぼえ》のあるような心持を私に起させた。昔《むか》し「影|参差《しんし》松三本の月夜かな」と咏《うた》ったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

        二十四

「そんな所に生《お》い立《た》って、よく今日《こんにち》まで無事にすんだものですね」
「まあどうかこうか無事にやって来ました」
 私達の使った無事という言葉は、男女《なんにょ》の間に起る恋の波瀾《はらん》がないという意味で、云わば情事の反対を指《さ》したようなものであるが、私の追窮心《ついきゅうしん》は簡単なこの一句の答で満足できなかった。
「よく人が云いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好な男でも、菓子が厭《いや》になるって、御彼岸《おひがん》に御萩《おはぎ》などを拵《こしら》えているところを宅《うち》で見ていても分るじゃありませんか、拵えるものは、ただ御萩を御重《おじゅう》に詰めるだけで、もうげんなり[#「げんなり」に傍点]した顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」
「そういう訳でもないようです。とにかく廿歳《はたち》少し過ぎまでは平気でいたのですから」
 その人はある意味において好男子であった。
「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘《さそ》われがちになるのが当り前でしょう」
「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」
「じゃ全く気がつかずにいたのですね」
「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手に惹《ひ》きつけられる事ができなかったのです」
 私はそれが話の終りかと思った。二人の前には正月の膳《ぜん》が据《す》えてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど盃《さかずき》に手を触れなかったから、献酬《けんしゅう》というものは全くなかった。
「それだけで今日まで経過して来られたのですか」と私は吸物をすすりながら念のために訊《き》いて見た。すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論|素人《しろうと》ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首を縊《くく》って死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那《だんな》が二人あって、双方が意地ずくで、身受の金を競《せ》り上《あ》げにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責《ぎりぜめ》にもしたらしいのです。……」
「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」
「当時の私は丁稚《でっち》の少し毛の生《は》えたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸妓《げいしゃ》はあなたのために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚《ねざめ》が悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
 元日に込《こ》み合《あ》った私の座敷は、二日になって淋《さび》しいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういう憐《あわ》れな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客は真面目《まじめ》な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど艶《つや》っぽい言葉を使わなかった。

        二十五

 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通《きりどお》しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋《ぎゅうや》の傍《そば》に、寄席《よせ》の看板がいつでも懸《かか》っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論|傘《かさ》をさしていた。それが鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張で、上から洩《も》ってくる雫《しずく》が、自然木《じねんぼく》の柄《え》を伝わって、私の手を濡《ぬ》らし始めた。人通りの少ないこの小路《こうじ》は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄《あしだ》の歯に引《ひ》っ懸《かか》る汚《きた》ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗《わ》びしかった。始終《しじゅう》通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹《ひ》くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕《ふしょく》するような不愉快な塊《かたまり》が常にあった。私は陰欝《いんうつ》な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町《ひかげちょう》の寄席《よせ》の前まで来た私は、突然一台の幌俥《ほろぐるま》に出合った。私と俥の間には何の隔《へだた》りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚《みと》れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶《あいさつ》とともに、相手が、大塚楠緒《おおつかくすお》さんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目《いくかめ》だったろうか、楠緒《くすお》さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方《かた》かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧《あか》らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経《た》って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪《たず》ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻《さい》と喧嘩《けんか》をしていた。私は厭《いや》な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫《あや》まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々《にがにが》しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込《ひっこ》んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶《あいさつ》も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支《さしつかえ》ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺《かん》の中」という手向《たむけ》の句を楠緒さんのために咏《よ》んだ。それを俳句の好きなある男が嬉《うれ》しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

        二十六

 益《ます》さんがどうしてそんなに零落《おちぶれ》たものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、家《うち》を潰《つぶ》して私の所へ転《ころ》がり込んで食客《いそうろう》になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町の鰯屋《いわしや》へ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛《かわい》がって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終《しじゅう》話していた。
 二人とも私の母方の従兄《いとこ》に当る男だったから、その縁故で、益さんは弟《おとと》に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅《せんべい》の袋などを手土産《てみやげ》に持って、よく訪ねて来た。
 益さんはその時何でも芝の外《はず》れか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気《のんき》な生活を営んでいたらしいので、宅《うち》へ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などと威嚇《おどか》したものである。
 当時二番目と三番目の兄は、まだ南校《なんこう》へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日《こんにち》の大学へ這入《はい》る組織《そしょく》になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐《きり》の机を並べて、明日《あした》の下読《したよみ》をする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、そ
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