の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しそうに懸《かか》っていた頃、よく母から小遣《こづかい》を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟《なんりん》とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家《うち》はどこにあったか知らないが、どの見当《けんとう》から歩いて来るにしても、道普請《みちぶしん》ができて、家並《いえなみ》の揃《そろ》った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞《たく》ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁《おいらん》え、と云われて八《や》ツ橋《はし》なんざますえとふり返る、途端《とたん》に切り込む刃《やいば》の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教《おす》わったのか、それとも後《あと》になって落語家《はなしか》のやる講釈師の真似《まね》から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠《ちゃばたけ》とか、竹藪《たけやぶ》とかまたは長い田圃路《たんぼみち》とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂《かぐらざか》まで出る例になっていたので、そうした必要に馴《な》らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来《やらい》の坂を上《あが》って酒井様の火《ひ》の見櫓《みやぐら》を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森《いんしん》として、大空が曇ったように始終《しじゅう》薄暗かった。
あの土手の上に二抱《ふたかかえ》も三抱《みかか》えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間《すきま》隙間をまた大きな竹藪で塞《ふさ》いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄《ひよりげた》などを穿《は》いて出ようものなら、きっと非道《ひど》い目にあうにきまっていた。あすこの霜融《しもどけ》は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染《し》み込《こ》んでいる。
そのくらい不便な所でも火事の虞《おそれ》はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子《はしご》が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋《いちぜんめしや》もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾《なわのれん》の隙間からあたたかそうな|煮〆《にしめ》の香《におい》が煙《けむり》と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄《もや》に融《と》け込んで行く趣《おもむき》なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木|哉《かな》」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。
二十一
私の家に関する私の記憶は、惣《そう》じてこういう風に鄙《ひな》びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐《あわ》れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間《こないだ》、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出《はで》な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
その頃の芝居小屋はみんな猿若町《さるわかちょう》にあった。電車も俥《くるま》もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半《よなか》に起きて支度《したく》をした。途中が物騒《ぶっそう》だというので、用心のため、下男がきっと供《とも》をして行ったそうである。
彼らは筑土《つくど》を下りて、柿の木横町から揚場《あげば》へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充《み》ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰《ほうへいこうしょう》の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕《こ》がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
大川へ出た船は、流を溯《さかのぼ》って吾妻橋《あずまばし》を通り抜けて、今戸《いまど》の有明楼《ゆうめいろう》の傍《そば》に着けたものだという。姉達はそこから上《あが》って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間《たかどま》に限られていた。これは彼らの服装《なり》なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。
幕の間には役者に随《つ》いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬《ちりめん》の模様のある着物の上に袴《はかま》を穿《は》いた男の後《あと》に跟《つ》いて、田之助《たのすけ》とか訥升《とっしょう》とかいう贔屓《ひいき》の役者の部屋へ行って、扇子《せんす》に画《え》などを描《か》いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄《みえ》だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
帰りには元《もと》来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心《ぶようじん》だからと云って、下男がまた提灯《ちょうちん》を点《つ》けて迎《むかえ》に行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半《よなか》から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
こんな華麗《はなやか》な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
もっとも私の家も侍分《さむらいぶん》ではなかった。派出《はで》な付合《つきあい》をしなければならない名主《なぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一中節《いっちゅうぶし》を習ったり、馴染《なじみ》の女に縮緬《ちりめん》の積夜具《つみやぐ》をしてやったりしたのだそうである。青山に田地《でんち》があって、そこから上って来る米だけでも、家《うち》のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂《つ》く音を始終《しじゅう》聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関《げんか》玄関と称《とな》えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳《いか》めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、また古ぼけた馬上《ばじょう》提灯などが、並んで懸《か》けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。
二十二
この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうして床《とこ》についてから床を上げるまでに、ほぼ一月《ひとつき》の日数《ひかず》を潰《つぶ》してしまう。
私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計|痩《や》せこけてふらふらする。一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱が祟《たた》るからのように思われる。
私の立居《たちい》が自由になると、黒枠《くろわく》のついた摺物《すりもの》が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽《シルクハット》などを被《かぶ》って、葬式の供に立つ、俥《くるま》を駆《か》って斎場《さいじょう》へ駈《か》けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯《とし》が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交《まじ》っている。
私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
私としてこういう黙想に耽《ふけ》るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地《いち》や、身体《からだ》や、才能や――すべて己《おの》れというもののおり所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経《どきょう》の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸《けいがい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々|斃《たお》れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴《き》かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終《しじゅう》落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖《こわ》いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないと見えます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」
私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。
不思議な事に私の寝ている間には、黒枠《くろわく》の通知がほとんど来ない。去年の秋にも病気が癒《なお》った後《あと》で、三四人の葬儀に列したのである。その三四人の中に社の佐藤君も這入《はい》っていた。私は佐藤君がある宴会の席で、社から貰った銀盃《ぎんぱい》を持って来て、私に酒を勧《すす》めてくれた事を思い出した。その時彼の踊った変な踊もまだ覚えている。この元気な崛強《くっきょう》な人の葬式《とむらい》に行った私は、彼が死んで私が生残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。しかし折々考えると、自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。そうして運命がわざと私を愚弄《ぐろう》するのではないかしらと疑いたくなる。
二十三
今私の住んでいる近所に喜久井町《きくいちょう》という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々|漂浪《ひょうろう》して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来《ねごろ》の方まで延びていた。
私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出す懐《なつ》かしい響を私に与えてくれない。しかし書斎に独《ひと》り坐って、頬杖《ほおづえ》を突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想《れんそう》が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》し始める事がある。
この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後《のち》になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵《こしら》えたものに相違ないのである。
私の家の定紋《じょうもん》が井桁《いげた》に菊なので、それに
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