者屋の竹格子《たけごうし》の窓から、「今日《こんち》は」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌《ごあいきょう》に遊びに来る。といった風の調子であった。
私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋《はにかみや》で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅《すみ》の方に引込《ひっこ》んでばかりいた。それでも私は何かの拍子《ひょうし》で、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢《おご》らなければならないので、私は人の買った寿司《すし》や菓子をだいぶ食った。
一週間ほど経《た》ってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時|咲松《さきまつ》という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣《こづかい》さえ無かった。
「僕は銭《ぜに》がないから厭《いや》だ」
「好いわ、私《わたし》が持ってるから」
この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗《きれい》な襦袢《じゅばん》の袖《そで》でしきりに薄赤くなった二重瞼《ふたえまぶち》を擦《こす》っていた。
その後《ご》私は「御作《おさく》が好い御客に引かされた」という噂《うわさ》を、従兄《いとこ》の家《うち》で聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松《さきまつ》と云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も来《こ》ないだろうと考えた。
ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人《たつじん》といっしょに、芝の山内《さんない》の勧工場《かんこうば》へ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に引《ひ》き易《か》えて、彼女はもう品《ひん》の好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の傍《そば》についていた。……
私は床屋の亭主の口から出た東家《あずまや》という芸者屋の名前の奥に潜《ひそ》んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪《めい》でさあ」
「そうかい」
私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は亡《な》くなりましたよ、旦那」
私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩《ウラジオ》で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
私は帰って硝子戸《ガラスど》の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。
十八
私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲《まわり》がきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜《よろ》しいものでしょう」と聞いた。
この女はある親戚の宅《うち》に寄寓《きぐう》しているので、そこが手狭《てぜま》な上に、子供などが蒼蠅《うるさ》いのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家《うち》を探して下宿でもしたら好いでしょう」
「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」
私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。
「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」
「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」
「どんなものと云って、真直《まっすぐ》な直線なのです」
私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。
「物には何でも中心がございましょう」
「それは眼で見る事ができ、尺度《ものさし》で計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」
女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、膝《ひざ》の上で両手を擦《す》ったりしていた。
「あなたの直線というのは比喩《たとえ》じゃありませんか。もし比喩なら、円《まる》と云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」
「そうかも知れませんが、形や色が始終《しじゅう》変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」
「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」
こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。
「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢《とし》や教育や学問で、そうきちん[#「きちん」に傍点]と片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目《だめ》です。坊さんの所へでもいらっしゃい」
すると女が私の顔を見た。
「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整《とと》のっていらっしゃるように思いました」
「そんなはずがありません」
「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調《ととの》っていらっしゃるとしか考えられませんでした」
「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終《しじゅう》病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。
「それはあなたが私より偉い証拠《しょうこ》です」と私も答えた。
女は蒲団《ふとん》を滑《すべ》り下りた。そうして、「どうぞ御身体《おからだ》を御大切《ごたいせつ》に」と云って帰って行った。
十九
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実《じつ》小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内《しゅびきうち》か朱引外か分らない辺鄙《へんぴ》な隅《すみ》の方にあったに違ないのである。
それでも内蔵造《くらづくり》の家《うち》が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋伝兵衛《おうみやでんべえ》という薬種屋《やくしゅや》などはその一つであった。それから坂を下《お》り切《き》った所に、間口の広い小倉屋《こくらや》という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛《ほりべやすべえ》が高田の馬場で敵《かたき》を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒《ますざけ》を飲んで行ったという履歴のある家柄《いえがら》であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂《うわさ》の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北《おきた》さんの長唄《ながうた》は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅《うち》の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過《ひるすぎ》などに、私はよく恍惚《うっとり》とした魂を、麗《うらら》かな光に包みながら、御北さんの御浚《おさら》いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠《も》たせて、佇立《たたず》んでいた事がある。その御蔭《おかげ》で私はとうとう「旅の衣《ころも》は篠懸《すずかけ》の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋《かじや》も一軒あった。少し八幡坂《はちまんざか》の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ[#「やっちゃ」に傍点]場《ば》もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋《とんや》の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際《つきあい》からいうと、まるで疎濶《そかつ》であった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄《あいだがら》に過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水《ていすい》と好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞《ひとぎき》に聞いて覚えてはいるが、纏《まと》まった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立《やたて》と帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に挙《あ》げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ[#「ろんじ」に傍点]だのがれん[#「がれん」に傍点]だのという符徴《ふちょう》を、罵《のの》しるように呼び上げるうちに、薑《しょうが》や茄子《なす》や唐《とう》茄子の籠《かご》が、それらの節太《ふしぶと》の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
どんな田舎《いなか》へ行ってもありがちな豆腐屋《とうふや》は無論あった。その豆腐屋には油の臭《におい》の染《し》み込《こ》んだ縄暖簾《なわのれん》がかかっていて門口《かどぐち》を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗《きれい》だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺《せいかんじ》という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後《うしろ》は、深い竹藪《たけやぶ》で一面に掩《おお》われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤《おつとめ》の鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に残っている。ことに霧《きり》の多い秋から木枯《こがらし》の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷《つめ》たい或物を叩《たた》き込むように小さい私の気分を寒くした。
二十
この豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場《ひとよせば》のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞《かすみ》をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
その席亭の主人《あるじ》というのは、町内の鳶頭《とびがしら》で、時々|目暗縞《めくらじま》の腹掛に赤い筋《すじ》の入った印袢纏《しるしばんてん》を着て、突っかけ草履《ぞうり》か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤《おふじ》さんという娘があって、その人の容色《きりょう》がよく家《うち》のものの口に上《のぼ》った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後《のち》には養子を貰ったが、それが口髭《くちひげ》を生《は》やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
この養子が来る時分には、もう寄席《よせ》もやめて、しもうた屋《や》になっていたようであるが、私はそこの宅《うち》
前へ
次へ
全13ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング