彼の顔も咽喉《のど》も昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。廿世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽《ふけ》っていた。
 彼というのは馬琴《ばきん》の事で、昔|伊勢本《いせもと》で南竜の中入前をつとめていた頃には、琴凌《きんりょう》と呼ばれた若手だったのである。

        三十六

 私の長兄はまだ大学とならない前の開成校《かいせいこう》にいたのだが、肺を患《わずら》って中途で退学してしまった。私とはだいぶ年歯《とし》が違うので、兄弟としての親しみよりも、大人《おとな》対小供としての関係の方が、深く私の頭に浸《し》み込《こ》んでいる。ことに怒《おこ》られた時はそうした感じが強く私を刺戟《しげき》したように思う。
 兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかに峻《けわ》しい相《そう》を具えていて、むやみに近寄れないと云った風の逼《せま》った心持を他《ひと》に与えた。
 兄の在学中には、まだ地方から出て来た貢進生《こうしんせい》などのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。兄は或上級生に艶書《ふみ》をつけられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上《としうえ》の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてその文《ふみ》をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた。
 学校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、始終《しじゅう》堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気をおく様子が見えた。その上病気のせいでもあろうが、常に陰気臭《いんきくさ》い顔をして、宅《うち》にばかり引込《ひっこ》んでいた。
 それがいつとなく融《と》けて来て、人柄《ひとがら》が自《おの》ずと柔らかになったと思うと、彼はよく古渡唐桟《こわたりとうざん》の着物に角帯《かくおび》などを締《し》めて、夕方から宅を外にし始めた。時々は紫色《むらさきいろ》で亀甲型《きっこうがた》を一面に摺《す》った亀清《かめせい》の団扇《うちわ》などが茶の間に放《ほう》り出《だ》されるようになった。それだけならまだ好いが、彼は長火鉢《ながひばち》の前へ坐《すわ》ったまま、しきりに仮色《こわいろ》を遣《つか》い出した。しかし宅のものは別段それに頓着《とんじゃく》する様子も見えなかった。私は無論平気であった。仮色《こわいろ》と同時に藤八拳《とうはちけん》も始まった。しかしこの方《ほう》は相手が要《い》るので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。私は真面目《まじめ》な顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。
 この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、待夜《たいや》も済んで、まず一片付《ひとかたづき》というところへ一人の女が尋ねて来た。三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事を訊《き》いた。
「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
 兄は病気のため、生涯《しょうがい》妻帯しなかった。
「いいえしまいまで独身で暮らしていました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾《わたくし》のようなものは、どうせ旦那《だんな》がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」
 兄の遺骨の埋《う》められた寺の名を教《おす》わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。
 私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆《おばあ》さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺《しわ》が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女《かのおんな》が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛《つら》い悲しい事かも知れない。

        三十七

 私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺《のこ》して行ってくれなかった。
 母の名は千枝《ちえ》といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐《なつ》かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
 母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿《たど》って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
 私の知っている母は、常に大きな眼鏡《めがね》をかけて裁縫《しごと》をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球《たま》の大きさが直径《さしわたし》二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこし顋《あご》を襟元《えりもと》へ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間《いっけん》の襖《ふすま》を想《おも》い出《だ》す。古びた張交《はりまぜ》の中《うち》に、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》なども鮮《あざ》やかに眼に浮んで来る。
 夏になると母は始終《しじゅう》紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》を着て、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯を締《し》めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装《なり》で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻《えんばな》へ出て、兄と碁《ご》を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄《ずがら》として、私の胸に収めてある唯一《ゆいいつ》の記念《かたみ》なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子《かたびら》を着て、同じ帯を締《し》めて坐っているのである。
 私はついぞ母の里へ伴《つ》れて行かれた覚《おぼえ》がないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めて訊《き》きたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやり霞《かす》んで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四《よ》ツ谷《や》大番町《おおばんまち》で生れたという話だけは確《たし》かに聞いていた。宅《うち》は質屋であったらしい。蔵が幾戸前《いくとまえ》とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもう潰《つぶ》れてしまったのだろう。
 母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気《おぼろげ》に覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよく弁《わきま》えない今の私には、ただ淡《あわ》い薫《かおり》を残して消えた香《こう》のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
 しかしそう云えば、私は錦絵《にしきえ》に描《か》いた御殿女中の羽織っているような華美《はで》な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏《もみうら》を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍《ぬい》も交《まじ》っていた。これは恐らく当時の裲襠《かいどり》とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。
 それのみか私はこの美くしい裲襠がその後《ご》小掻巻《こがいまき》に仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

        三十八

 私が大学で教《おす》わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別《せんべつ》を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵《たかまきえ》の緋《ひ》の房《ふさ》の付いた美しい文箱《ふばこ》を取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆を執《と》って見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影《おもかげ》を濃《こまや》かに宿しているように思われてならない。母は生涯《しょうがい》父から着物を拵《こしら》えて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度《したく》をして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》も、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥《たんす》の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊《き》いて見たい。
 悪戯《いたずら》で強情な私は、けっして世間の末《すえ》ッ子《こ》のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中《うちじゅう》で一番私を可愛《かわい》がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中《うち》には、いつでも籠《こも》っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床《ゆか》しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢《かし》こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていた。
「御母《おっか》さんは何にも云わないけれども、どこかに怖《こわ》いところがある」
 私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひっぱりだ》してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融《と》けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際《きわ》どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切《とぎ》れ途切れに残っている彼女の面影《おもかげ》をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴《ほうふつ》する訳に行かない。その途切《とぎれ》途切に残っている昔さえ、半《なか》ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは掴《つか》めない。
 或時私は二階へ上《あが》って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経《た》っても留らなかったり、あるいは仰向《あおむき》に眺めている天井《てんじょう》がだんだん上から下りて来て、私の胸を抑《おさ》えつけたり、または眼を開《あ》いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体《からだ》だけが睡魔の擒《とりこ》となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
 私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣《つか》ったのか、その辺も明瞭《めいりょう》でないけれども、小供の私にはとても償《つぐな》う訳
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