、私はかえって羨《うらや》ましく思っている。
三十一
私がまだ小学校に行っていた時分に、喜《き》いちゃんという仲の好い友達があった。喜いちゃんは当時|中町《なかちょう》の叔父さんの宅《うち》にいたので、そう道程《みちのり》の近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来|悪《にく》かった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんの許《もと》であった。
喜いちゃんには父母《ちちはは》がないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらく訊《き》いて見た事もなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんの御父《おとっ》さんというのは、昔《むか》し銀座の役人か何かをしていた時、贋金《にせがね》を造ったとかいう嫌疑《けんぎ》を受けて、入牢《じゅうろう》したまま死んでしまったのだという。それであと
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