で、どのくらいの月日を空《くう》に暮らしたものだろう、それを訊《き》かれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼を覚《さ》ましたが、周囲《あたり》が真暗《まっくら》なので、誰がそこに蹲踞《うずくま》っているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私の家《うち》の下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語《みみこすり》をするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父《おとっ》さんと御母《おっか》さんなのですよ。先刻《さっき》ね、おおかたそのせいであんなにこっちの宅《うち》が好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の中《うち》では大変嬉しかった
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