どういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
 私としてこういう黙想に耽《ふけ》るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地《いち》や、身体《からだ》や、才能や――すべて己《おの》れというもののおり所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経《どきょう》の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸《けいがい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
 或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々|斃《たお》れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴《き》かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終《しじゅう》落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖《こわ
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