それほど自然に、それほど雑作《ぞうさ》なく、それほど拘泥《こだ》わらずに、するすると私の咽喉《のど》を滑《すべ》り越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。
十
向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだ昔《むか》しのままの面影《おもかげ》が、懐《なつ》かしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面に霞《かす》んでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間に挟《はさ》まっている過去という不思議なものを顧《かえり》みない訳に行かなかった。
Oは昔し林檎《りんご》のように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりした輪廓《りんかく》に包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。
私は彼に私の口髭《くちひげ》と揉《も》み上《あ》げを見せた。彼はまた私のために自分
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