から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などを繙《ひもと》いた。私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。
 空の澄み切った秋日和《あきびより》などには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀越《へいごし》に差し出た樹《き》の枝から、黄色に染まった小《ち》さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色《けしき》をよく見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。ただ秋の色の空《くう》に動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴《ふちょう》として怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はその後《あと》から平生のゆったりした調子で独言《ひとりごと》のように説明した時も、私には一口の挨拶《あいさつ》もできなかった。
 彼は貧生であった。大観音《おおがんのん》の傍《そば》に間借をして自炊《じすい》していた頃には、よく干鮭《からざけ》を焼いて佗《わ》びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子《も
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