記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常の匂《におい》が漂《ただよ》っていた。
 ヘクトーは元気なさそうに尻尾《しっぽ》を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎《よだれ》を見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦を顧《かえり》みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
 私は次の日も木賊《とくさ》の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅《うち》へ帰って来なかった。
「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」
 家《うち》のものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。届書《とどけしょ》を出す時、種類という下へ混血児《あいのこ》と書いたり、色という字の下へ赤斑《あかまだら》と書いた滑稽《こっけい》も微《かす》かに胸に浮んだ。
 彼がいなくなって約一週間も経《た》ったと思う頃、一二丁|隔《へだた》ったある人の家から
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