に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚《あ》げて下にいる母を呼んだのである。
二階の梯子段《はしごだん》は、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》の張交《はりまぜ》にしてある襖《ふすま》の、すぐ後《うしろ》についているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母《おっか》さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変|嬉《うれ》しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉《いしゃ》の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装《なり》は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》に
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